巧みなブログ

国語教育を勉強していた社会人一年目のブログ

村上春樹な羅生門(上)

「クソデカ羅生門」に負けてられない。

羅生門

 ある日の暮方の事だ。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。この下人が存在するという事は、下人でない人もまた、存在する。これはまあ世の中の成り立ちとしては当然のことなのかもしれないけど、そういうことについて真剣に考え始めると、僕の思考は暗闇の羅生門をさまようみたいに混乱してしまう。

 何故彼は下人でなくてはならなかったのか?

 何故彼は下人であり、僕はそうじゃないのか?

 広い門の下には、この男のほかに誰もいない。でも、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀は一匹とまっている。羅生門朱雀大路にあるのだから、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子(実のところ、僕は彼らがどんなものか未だによくわからない)が、もう二三人はありそうなものだけど。とにかく、この男のほかには誰もいない。

どうしてかって?この二三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか饑饉だとかいう災いがつづいて起ったらしい。洛中もさびれるはずだ。仏像や仏具を打砕いて、その丹がついたり、金銀のがついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪の料に売っていたという事だ。ほんとはどうだったのかは分からない。確かなのは、僕の手元にあるこの旧記ってやつにはそう書いてあるってことだ。洛中がそんなだから、羅生門の修理なんて、誰もしようと思わない。すると、狐狸だったり盗人がそこに住み始める。それがとうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。結果的に、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまった。君みたいな物好きを除けば、だけど。

 その代りまた鴉がどこからか、たくさん集って来た。昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾のまわりを啼きながら、飛びまわっている。特に門の上の空が夕焼けであかくなる時なんて、まるで胡麻か何かをまいたようにはっきり見えた。鴉の体内には恐らく、彼らだけに作用する人の顔ほどの磁石のようなものがあり、時々何とかの力を作用させてひっつかないとならないのだろう。もっとも今日は、刻限が遅いせいか、一羽も見えない。下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺の襖の尻を据えて、右の頬に出来た、大きなにきびを気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。

 僕はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようという当てはない。普段なら勿論、主人の家へ帰るはずだ。だって彼は下人だからね。ところがその主人からは、四五日前に暇を出された。「クビ」とか「リストラ」と言い換えてもいいかもしれない。ともかく、今この下人は、ちょっとした京都の衰微のせいで、永年使われていた主人から、暇を出されたわけだ。だから「下人が雨やみを待っていた」というよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」という方が、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人のサンチマンタリスムに影響した。申の刻下がりからふり出した雨は、いまだに上る気色がない。この雨がいつになったら上るのか、彼はもちろん知らない。ただ、この羅生門は(それが気が遠くなるほどの長い時間でも)雨に降られることに慣れているようだった。こういうわけで、下人にできることは朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞くことだけだった。

 どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる暇はない。選んでいれば、饑死するばかりだ。それが築土の下か道ばたの土の上かはわからないけれど、どこでそうなっても、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうことに変わりはない。選ばないとすれば――下人の考えは低徊する。「盗人になるよりほかに仕方がない?」下人は顔のにきびが気になるくらいの年齢で、きっともうすぐできものは消えるくらいだ。当分の間は住む場所も見つかる見込みはなく、かといって盗むを行うに至る確たる理由もなかった。下人の「すれば」はいつまでたっても、結局「すれば」であり、何時間もの間、新しい一歩を踏み出せずにいた。

「やれやれ。」下人は、大きな嚔をして、それから、大儀そうに立上った。夕冷えのする京都は、もう火桶が欲しいほどの寒さである。風は門の柱と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹きぬける。丹塗りの柱にとまっていた蟋蟀も、もうどこかへ行ってしまった。この蟋蟀がきりぎりすかこおろぎかについては意見の分かれるところだけど、今はそっとしておこう。

下人は首をちぢめながら、ぶんぶん頭を振った。まずは今日の宿の事を考えよう。お金とか食事とかについて考えるのはそれからでも遅くはない。そのとき、山吹の汗袗に重ねた、紺の襖からうっすら異臭を感じたが、それについて深く考えるのはやめておいた。たぶん、今はその時じゃない。すると、幸い門の上の楼へ上る、幅の広い、これも丹を塗った梯子が眼についた。上なら、人がいたにしても、どうせ死人ばかりである。下人はそこで、腰にさげた聖柄の太刀たちが鞘走らないように気をつけながら、藁草履をはいた足を、その梯子の一番下の段へふみかけた。

それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、さながら猫のように身をちぢめて(ただし、彼を知っている人間にこのことを言うと、そんなじゃないとみんなが口を揃えた。僕にだけそう見えていたのかもしれない)、息を殺しながら、上の容子を窺っていた。楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い鬚の中に、赤く膿を持ったにきびのある頬である。下人は、始めから、この上にいる者は、死人ばかりだと高を括っていた。それが、梯子を二三段上って見ると、上では誰か火をとぼして、しかもその火をそこここと動かしているじゃないか!

下人は、やもりのように足音をぬすんで、やっと急な梯子を、一番上の段まで這うようにして上りつめた。そこでほんの少しの間、やもりといもりの違いについて考えた後で、体を出来るだけ、平にしながら、頸を出来るだけ、前へ出して、恐る恐る、楼の内を覗いて見た。

見ると、楼の内には、噂に聞いた通り、幾つかの死骸が、無造作に棄ててあるが、火の光の及ぶ範囲が思ったより狭いので、その数が具体的に幾つかはわからない。ただ、おぼろげながら、知れるのは、その中に裸の死骸と、着物を着た死骸とがあるという事である。勿論、中には女も男もまじっているらしい。下人はふいに、「土偶と埴輪の違いはつくられた時代と目的なんだ、実は。」と興奮気味に語る社会科の先生を思い出した。人というより土偶とか埴輪のように見えるその死骸たちは、ぼんやりとした日の光を受けて、低くなっている部分の影を一層暗くしながら、永久に唖の如く黙っていた。

下人は、それらの死骸の腐爛ふらんした臭気に思わず、鼻を掩った。しかし、その手は、次の瞬間には、もう鼻を掩う事を忘れていた。ある強い感情が、ほとんどことごとくこの男の嗅覚を奪ってしまったからだ。

下人の眼は、その時、はじめてその死骸の中に蹲うずくまっている人間を見た。檜皮色の着物を着た、背の低い、痩せた、白髪頭の、猿のような(繰り返すが、僕にだけそう見えていたのかもしれない)老婆である。その老婆は、右の手に火をともした松の木片を持って、その死骸の一つの顔を覗きこむように眺めていた。髪の毛の長い所を見ると、多分女の死骸だろう。

下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸をするのさえ忘れていた。旧記の記者の語を借りれば、「頭身の毛も太る」ように感じたのである。すると老婆は、松の木片を、床板の間に挿して、それから、今まで眺めていた死骸の首に両手をかけると、丁度、猿の親が猿の子の虱をとるように、その長い髪の毛を一本ずつ抜きはじめた。どうも髪は手に従って抜けるらしい。

 その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、もしくは彼女の顔立ちが鮮明に照らし出されるにしたがって、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えて行った。そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。彼女は恐らく何かと金のかかる私立女子大学で仏文学を専攻し、卒業すると年に一度パリに旅行してきたはずだ。――いや、この老婆に対すると云っては、語弊があるかも知れない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。この時、誰かがこの下人に、さっき門の下でこの男が考えていた、饑死にをするか盗人になるかと云う問題を、改めて持出したら、恐らく下人は、何の未練もなく、饑死を選んだ事であろう。それほど、この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片のように、勢いよく燃え上り出していたのである。

「どうして髪を抜くのだろう、いったい?」 

下人は、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。勿論、下人は、さっきまで自分が、盗人になる気でいた事なんて、とっくに忘れていたのである。