巧みなブログ

国語教育を勉強していた社会人一年目のブログ

村上春樹な羅生門(下)

そこで、下人は、両足に力を入れて、いきなり、梯子から上へ飛び上った。そうして聖柄の太刀に手をかけながら、大股に老婆の前へ歩みよった。いうまでもなく、老婆は驚いている。

老婆は、一目下人を見ると、まるで弩にでも弾はじかれたように、飛び上った。

老婆が死骸につまずきながら、慌てふためいて逃げようとする行手を塞ふさいで、「一つ質問したいことがあるんだけど」と下人は言った。老婆は、それでも下人をつきのけて行こうとする。

「やれやれ。」

下人はまた、それを行かすまいと、押しもどした。二人は死骸の中で、しばらく、無言のまま、つかみ合った。まるで鶏の脚のような、骨と皮ばかりの腕である。すぐに下人は老婆の腕をつかんで、無理にそこへねじ倒した。

「君はここでなにをしていたんだろう、ところで?」

下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀の鞘を払って、白い鋼の色をその眼の前へつきつけた。けれども、老婆は黙っている。両手をわなわなふるわせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球がまぶたの外へ出そうになるほど、見開いて、唖のように執拗く黙っている。

「僕は検非違使の庁の役人かもしれないし、あるいはそうじゃないかもしれない。でもそんなことは正直どうだっていいんだ。世界には飢えた子供達が大勢いるし、この星の自然はこの瞬間も破壊され続けてる。それに僕のにきびはいつまでも大きいままだ。僕が検非違使の庁の役人かどうかなんて、いったい誰が気にする?」今度は、老婆を見下しながら、少し声を柔らげてこう云った。

すると、老婆は、見開いていた眼を、一層大きくして、じっとその下人の顔を見守った。まぶたの赤くなった、肉食鳥のような、鋭い眼で見たのである。確かにそうだと思う。僕だってこんなことを急に言われたら困ってしまうだろう。それから、皺で、ほとんど、鼻と一つになった唇を、何か物でも噛んでいるように動かした。細い喉で、尖った喉仏の動いているのが見える。その時、その喉から、鴉の啼くような声が、喘あえぎ喘ぎ、下人の耳へ伝わって来た。

「この髪を抜いているの、たくさんね。」と老婆は言った。

「この髪を抜いている。たくさん。」下人は、老婆の答えが思ったよりも平凡なのに失望した。いや、個性は誰にでもある。彼女にとっての髪を抜く行為は下人の知るそれとは少し違うのかもしれない。

「それはつまり、死人の髪で鬘を作るってことかな?」

「ええ。」老婆は頷いた。「大体そんなところ。」

もちろん納得はしていない、今だってそうだ。

「最後にもうひとつだけ、いいかな?」下人は遠慮がちにこう聞いた。「死人の髪で鬘を作るのは、悪いことじゃないかな?もしかして。」

老婆は、片手に、まだ死骸の頭から奪った長い抜け毛を持ったまま、さっきよりはっきりと、こんな事をいった。

「そうね、死人の髪の毛を抜くって、少し悪い事かも知れない。でも、ここにいる死人たちなんて、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだと思うわ。わたしが今、髪を抜いた女なんて、蛇を10センチとちょっとに切って干したのを、スモーク・サーモンだって、太刀帯の陣へ売りに行ってた。疫病にかかって死ななかったら、今でもきっと売りにいてたはず。笑っちゃうでしょう?スモーク・サーモンなんて!でも、わたしはこの女のした事が悪いとは思わない。餓死をしたくないから、仕方がなくしたんでしょう。だから、今また、わたしがしていることも仕方ないことだわ。ほら、ドストエフスキーが賭博について書いたものがあったでしょ?あれとおんなじよ。つまり、可能性がまわりに充ちているときに、それをやり過ごして通り過ぎるのはとっても難しいことなの。これ、わかる?」

 老婆は、大体こんな意味の事を云った。

下人は、太刀を鞘におさめて、その太刀の柄を左の手でおさえながら、冷然として、この話を聞いていた。右の手では、彼と同じくらいの年の男子がそうするように、赤く頬に膿を持った大きなにきびを気にしながら、聞いているのである。しかし、これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれて来た。それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上って、この老婆を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。下人は、饑死をするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの男の心もちから云えば、餓死などという事は、ましてやドストエフスキーが賭博について書いたことなんて、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。

「なるほどね。」

 老婆の話がおわると、下人は独り言のように念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手をにきびから離して、老婆の襟上をつかみながら、諭すようにこう云った。

「君はその髪を必要としている。切実にね。そして君はそれを手に入れる。仕方なく借りる、自業自得だから奪う、生きるために盗む…なんでもいい。どのみち捨てられた死人の髪だ。きっと誰も君を責めたりしないし、それがあればしばらく生きられるはずだ。そうだとすると、今から僕が君の着物を剥ぐとしたらどうだろう?だって僕も餓死しちゃいそうなんだ。」

下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。それはまるで何かへの復讐のようだった。浮気したあげく、一方的になんだかよくわからないことをまくしたてて部屋から出ていったあの子のように、下人はまたたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。

しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら(少なくとも僕にはそう聞こえた)、心なしかさっきより少し落ち込んだ様子の火の光をたよりに、梯子の口まで、這って行った。そうして、そこから、短い白髪をさかさまにして、門の下を覗きこんだ。外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。

 下人の行方は、誰も知らない。なんだかおとぎ話みたいに聞こえるだろうか。でもこれはおとぎ話じゃない。どんな意味合いにおいても。

おわり

クソデカ羅生門には勝てなかった。