巧みなブログ

国語教育を勉強していた社会人一年目のブログ

今年もよろしくお願いします

あけましておめでとうございます。更新が途絶えて久しいこのブログですが、単純に怠惰と心ばかりの忙しさによるもので、私は元気に1年を過ごしました。

ブログの方向性(と言えるほど確固としたものはないかもしれないが)を考えながら、今年こそ定期的に文章を書く習慣を身につけたいと思います。

どうぞ今年もよろしくお願いします。以下、自分のための備忘録です。

 

 

2021年はどんな年

ちょうど一年前の今頃は修士論文を必死に書き上げていた。

院生室で一人食べた赤いきつねの味を、生涯忘れることはないと思う。

 

無事に修論執筆&口述試験を終えた後は卒業旅行としてヨーロッパに行きたかったのだが、感染状況を考慮して国外は当然として国内の旅行らしい旅行もしなかった。

3月頭に配属先が決まってからは、引越し先を決めたり荷物を整理したりと思っていたより慌ただしく過ぎてしまった。2年間しか住まなかった部屋ではあったものの、多くの友人たちを招いたり、めちゃくちゃカビたり、雨漏りしたりと必ずしも最高な部屋というわけではなかったかもしれないが、コロナ禍のピーク時にはずっと部屋に籠っていた事もあり、3年住んだその前の部屋を引っ越す際には感じなかった寂しさがあった。

卒業式が対面で出来たのは有り難かった。教授から修了証書を手渡ししてもらえたし、最後に同期たちと全員で集まることも出来た。もちろん研究のために院進したし勉強もしたが、教授や同期の友人たちと出会えたのが何よりの財産である。

 

4月から社会人になった。配属先には本当にたまたま知人がいたため、気軽に話しかけられる人が最初からいるという実にラッキーな配属だった。

全く未経験の硬式野球部の顧問になったりもしたが、総合的に考えれば恵まれた環境だったと思う。

約8ヶ月働いてみて、随分仕事にも慣れた。これから新しく覚えなければならないことはもちろんあるが、心理的にはこの8ヶ月以上の負荷がかかることはない気がする。身体的には間違いなく来年以降の方が大変だろうと思うので、しっかり身構えておく。

 

 

概括すると「学生最後の年&社会人一年目」の一年だったのだが、卒業旅行をはじめ「学生最後の○○」みたいなものをあまり出来ずに社会人になったからか、ずっと身近にあった学校という場所で働くことになったからか、ぬるっと学生から社会人になってしまったような気がする。ギャップに苦しまなかったという点では良かったのかもしれないが。

大袈裟な言い方をすると、高校生の頃に「学校の教員になる」と決めて以来、「8年間胸に抱き続けた夢がようやく叶った年」だった。

今回はこんな風に自分の一年にタイトルを付けられたが、このままだと次の年末以降は「去年と同じような一年だったな」と振り返ることになってしまうことになってしまう気がする。これを避けるために、(あんまり得意ではないのだけど)2022年の目標(テーマ)を決めて過ごしてみたい。

 

1.古典に親しむ

2.弓道五段審査を受けるに耐える射を作る

3.快適かつ見栄えのする部屋を整える

 

まずは手始めに自室にカーテンを付けることから始めようと思う。

 

暗中模索

 

久しぶりに確認したら総アクセス数が2000を超えていた。読んでくださった皆さんありがとうございます。記事の数はこれで52本になる。1年と少し前に始めたわけだが、我ながらよく続いていると思う。

 

ここ最近の更新が滞りがちなのは単純に働き始めて忙しくなったというのは勿論そうなんだが、シンプルに「これは書いておこうかな」というのが減っている気がする。こう書くと「楽しいことがない仕事に忙殺される社会人」のように受け取られてしまうかもしれないが、決してそんな事はない。健やかに楽しく日々を過ごしている。

それなのに書く気にならないのだから、このブログの方向性も変えて行った方が良いかもしれん。1年も続けてみた結果、無意識にこのブログ「らしい」記事を書こうとしていた気もする。文章を書くこと自体は続けていきたいので様々試してみようと思う。

引越し

 

1番初めに買った日用品はトイレットペーパー

 

菜箸で作った料理をそのままそれで食べる

 

蛍光灯が付いてない所があるけど高いし面倒だから夜は使わない部屋にした

 

カーテンも無いけど当然朝日がよく入るから寝坊しない

 

しばらくの布団生活に耐えて良いベッドを導入したい

 

 

もうしばらくはやりたくない

教科書検定と推し出版社

たまにはこういうことも…ね

 

学習指導要領

「学習指導要領」とかその改訂って一部の人以外は馴染みの薄いワードかもしれないのだけど、実は教育界隈、もっというなら国語界隈ではとってもホットなう、な話題である。

学習指導要領は各校種・教科の大まかな目標を定めるもので、これに基づいて学校ごとにカリキュラムが決められたり、色々な出版社が教科書を作ったりする。大体10年に1度くらいのペースで改訂されるため、これに伴って教科書も10年に1回あるいは2回程度改訂される。僕の世代でいうと、数学Cが廃止されたり物理I・IIが物理基礎・物理に変わったりしたのが、この指導要領の改訂によるものだ。

なぜこの改訂が国語界隈でホットなのか。端的にいうとめちゃくちゃ内容が変わるからである。僕がちゃんと国語に関して勉強するようになってからは初めての改訂であるためこれまでの改訂前後の雰囲気は分からないのだが、「戦後最大の大改訂」といわれてたりもするくらい、盛り上がって(バタバタして)いる。

指導要領改訂からの流れは以下のようになる。

  1. 学習指導要領が改訂
  2. 出版社がそれに基づき教科書を作る
  3. 教科書検定の審議会が開かれ、作られた教科書の合否が決まる
  4. 教科書が出版される
  5. 新しい教科書を使っての授業がスタート

おおよそこんな流れで教科書は作られるのだが、ちょうど昨日30日に3が行われた。

 

実用重視「現代の国語」 法令文、新聞記事も 教科書検定(時事通信) - Yahoo!ニュース

数学に料金プラン比較、国語に面接作法 新・高校教科書(朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース

 

「文学が教科書から消える」とか「契約書の読み方」とか様々盛り上がりはしているものの、教科書が出来上がってみないことには実際どのくらい変わるのか分からん、という状態だったので検定が終わるのを楽しみにしていた。

どうやら「水の東西」は教科書に残るらしい。またどの出版社も少なからず実用的な文章を盛り込んでいるようだけど、1つの単元として載るのか付録なのか等扱いは差があるのかもしれん。

まだこの記事に書いてあることしか知らないが、今のところ筑摩書房にとても好感が持てる。安易に実用文偏重に向かわない姿勢だったり、外国籍の未就学児童数に関する記事を載せたり。「国語の教科書ではこれを載せる・教えるべきだ」という考え方というか理念が自分に近い気がする。

これまでは自分が高校時代使っていた思い入れやその使い勝手の良さから桐原書店の教科書が推しだったのだが、筑摩に推し変せざるを得ないかもしれない。

おわり

先日無事大学院を修了しました。新しい教科書での授業が始まるのは令和4年度から。来年度はまだ旧過程での授業をすることになるので、未来の心配をするよりもまずは1年間ちゃんと授業をすることを考えたほうがよいでしょうね。社会人になっても気分転換にブログは書きたいと思っております、どうぞよろしく。

食後に飲む薬

 

私の名前はフェキソフェナジン。

あだ名はナジン。

コンプレックスは60mgでちょっと飲みにくいこと。

 

あなたは今回も私を飲み忘れるんでしょう。

今日の晩ご飯はなに?あ、カレーうどんなの。足りるの?その量で。

…いや、そんなことはどうでもいいのよ。ちゃんと飲むのよ今日こそは。

いっつも食後に飲むのを忘れるから、最近は食器の隣にわたしを置いてから食べ始めることにしたんでしょ?

ちゃんと飲もうとする意志は認めるけど、それでも結局飲み忘れてるじゃない!

そもそも、私は1日2回食後に服用のフェキソフェナジンなんですよ。それなのにあなた、「朝ごはん食べないから無理」とか言って、晩ご飯の後しか飲もうとしてないのよね?せめて1日1回くらいは飲んでよ…

 

…美味しそうに食べてるね。最近はうどんにはまってるんでしょ?修論に追われながら食べる赤いきつねは最高だったもんね。

 

あ、食べ終わった。座椅子にもたれた。スマホを持った。私を忘れた。

 

もういいわよ。気長に待つことにするわ。

食事の前はあんなに飲まんとしてるのに、こうもあっという間に忘れられるなんて。よっぽど幸せに食事出来てるんでしょう。

ちゃんと真剣に「美味しいな」って思いながら食べて、しっかり「美味しかった」って思いながら食べ終えられる。きっと幸せなことよ。

これからも、1人で食べる晩ご飯の時くらい、余計なこと考えずにいられたらいいね。

 

…私は「余計なこと」じゃないよね?

 

スクールカーストとか陽キャとか陰キャとか

時間が微妙に余ったので今日はもう一本。

スクールカースト

本棚の整理をしていたら、この本が目についた。

 

 

高校生のときに、使っていた駅の書店で見つけて買った新書。

教室や学年のなかの序列のようなものは(特に中学校では)感じていたし、どの学校でもあるものだと思うんだが、それはあくまで感覚的な話というか、ブラックボックスというか、暗黙の了解だと思っていた高校生の僕は、この本を読んでそれを指す学術用語があることに衝撃を受けた。

 

衝撃は受けたものの当時は(今も?)そんなに一般的な用語ではないのがせめてもの救いだったように思う。

陽キャ陰キャ

体感だと僕が大学に入る前後くらいによく見聞きするようになった気がするので、5,6年くらい前だろうか。大学生とか社会人が使っているのを見たり聞いたりする分にはあまり気にならなかったのだが、去年から行くようになった高校で高校生が使っているのを見たときは、これがまた衝撃だった。

これだけ普及していれば、高校生が使っていても何も不思議ではないんだけど、ある程度分別があり、自分の性格に良い意味で諦めがついているような大人が使うのとは意味が違う気がする。

先述したようにスクールカーストのように、こうした用語が普及する前から、誰もが自分あるいは他人が教室のなかで「陽」なのか「陰」なのかをなんとなく認識していたと思う。この「なんとなく」がポイントで、自分の性質・属性をぼんやりと、相対的に感じるにとどまっていたのではないか。

これが、陽キャ陰キャという用語が出来たことで、その用語を使うことで、それまでなんとなくぼんやりしていたものが、はっきりした絶対的なものに感じるようになったのではないか。

自分の性格との付き合い方が上手くない思春期の時期に、「お前は陰キャ」だとか「あなたは陽キャでいいな」とかって言われることは、何と言うか、言葉による呪いを受けることにならないか。

性格なんてこれからいくらでも変わるのに、他のコミュニティにいったら相対的には違っているかもしれないのに、「自分は陽キャ陰キャ」であると思い込むようにならないか。

おわり

もちろん、用語ができる前でも、クラスメイトに言われた言葉が性格形成に影響を及ぼすことは多々あったと思うんだけど、明確な用語が出来てしまったことはあんまり好ましくない気がする。

 

ヒゲ脱毛、始めました

ヒゲ脱毛の効果とかについての記事ではありません(まだ効果を語るほど通っていないので)。

 

なぜヒゲを脱毛するのか

なぜ脱毛するのか、と聞かれれば、当然答えは「髭が濃くてそれが嫌だから」である。

なぜ濃いのが嫌なのか、と聞かれれば、「朝剃っても夕方には生えてくるから」である。

なぜ夕方に生えてくるのが嫌なのか、と聞かれれば(そろそろしつこい)、「髭の処理(身だしなみ)をきちんと出来ない奴だと思われそうだから」である。

他にも、髭剃りの手間が減るだとか、肌荒れしにくくなるとか、色々とメリットはあるけど、僕が脱毛を決意したのは髭をきちんと剃ることに意識が向かない男だと思われたくなかったというのが一番大きい理由のように思う。

髭がある程度生える方はよく分かると思うが、出勤前にいくらしっかり剃ったとしても夕方には「今日は剃り忘れたんですか?」くらいの状態になってしまう。夕方から会う人には髭を剃ってないように見える。

そんなのイヤだ!!!

他人からどう見られるか(見られたいか)

僕はヒゲ脱毛によって「髭をきちんと剃ることに意識が向く男」に見られたい。

世界に自分しかいなかったら、ほど話を大袈裟にしなくても、あんまり他人と会わないような仕事に就くのなら脱毛しなかっただろう。むしろ顎髭を生やしてみたい願望がある。

僕は「A.自分がどう見せたいか(あごひげ)」よりも「B.他人からどう見られたいか(脱毛)」を優先するタイプのようだ。少なくともヒゲに関しては。

ここまで抽象的にしてみると、自分の服の選び方にも考えが及ぶ。

 

僕は服に関してもB.を優先することが多い。おおよそ、A:B=1:4くらいで服を選んでいる。

このため、自分の服を古いものから新しいものに並べてみると、それはそのまま「自分がどう見られたいと思っていたか」の歴史的変遷になる。

この時期は「青とか白」の「襟付きシャツ」を買ってるなとか、この時期は「派手な柄付き」の「フード付きパーカー(フーディー?)」だな、みたいな。

 

加えて、僕は単純に「こう見られたい」と考えるというよりは、「こう見られている自分が嫌になったからそうじゃなくこう見られたい」といったように、その時々の見られ方への反動で次の見られたい願望が決まるような傾向がある。

 

並べられた服に目を戻すと、大学2~4年生くらいに買った服は「大人っぽくて、清潔感があって、ちゃんとして」そうに見える服が多い一方で、修士に入って以降は比較的「ちゃんとして」なさそうな服を買っている。大学を卒業するくらいのタイミングで転換点があるように見えるし、なんとなくちゃんとしてなさそうに見られたく思っていた記憶がある。

 

自分ではこう思うというだけで、他人から見たら「いつも同じような見た目しているじゃん」と言われそうな気もするが。

 

おわり

こんな風に考えるようになったのは、どこかで「自分をどう見せたいかでなく、どう見られたいかで服を選ぶ」みたいな文章を読んだからなんだけど、どこで読んだのか忘れてしまった。

ヒゲ脱毛について調べてたからか、最近はYoutubeでやたらと「髭が濃いせいで女性にモテない男」の広告が出てくるし、惰性で最後まで観てしまう。

 

置いていかれたくない備忘録

修士論文を提出して、ぼちぼち採用前研修が始まってきた。

 

学部4年生の今頃は、就職する友人達から「今日、研修行ってきたんだよね」とか、「同期〇〇人いて、意外と女性が多かった」みたいな話を聞く機会が多かった気がする。そんな話を聞くと、なぜかすごく羨ましかったな、と研修を受けながら思い出した。

何をそんなに羨んでたのかは未だによく分からんのだが、たぶん自分の(恐らく友人達自身も)全く知らない世界に踏み込まんとする様子が随分輝いて見えていたからじゃないかと思っている。大学との違いもあるとはいえ、大学の延長上の大学院に進む自分と比較して余計にそう感じてたのかもしれん。

そして4月になると、社会人になった友人からは当然仕事や(広い意味で)お金の話を聞くようになる。これに関しては羨ましいよりも「やっぱり社会人は大変なんだな」の感想の方が圧倒的に強く出てきたが、自分の状況との比較、という見方をすると研修の話を聞いた時と同じような「変わっていく友人と変わらない自分」っていうギャップを感じていたように思う。

 

友人とこんな会話をしていたこともあってか、大学院入学からしばらくは何か「置いていかれた感」があった。行きたくて来た大学院だったし、大学院生活そのものは当時からとても充実していたし、理系の友人の多くは自分も同じ大学院に進学していたし、学部から大学院まで6年間同級生という人もいた。だけど何かが置いていかれていた、とにかく。

 

社会人になる、という意味では間もなく彼らに「置いつく」わけなんだけど、今にして思えば下手にジタバタせずにとことん置いていかれればよかったと修士を振り返ってみて思わなくもないが、ないものねだりでしょう。

GUCCIのパーカーを買う大人にはなれない(ならない)

ここ1,2ヶ月くらいは「ブログ書く暇があったら論文を書け」と自分に言い聞かせていたのですが、先週無事に提出しました。また少しずつ更新していけたらと思います。

久しぶりにバイトに出たらGUCCIのパーカー着たお客さんが来たことをきっかけに書くブログです。

 

多少金を持ってもその使い方は変わらないんじゃないか

順当に事が進めば次の4月から社会人になる。ひと月あたりの収入は、ざっくり今の2,3倍くらいになるはず。

社会人になってお金に余裕ができたら、学生の頃には使えなかったところにお金を使えるんじゃないかと、少し前まで考えていた。ブランド物の服を買ったりとか、良い食器を揃えたりだとか。

 

例えば、月の収入が10のAさんがいたとして、その使い道がこんな感じだったとする(貯金とかは面倒なので考えない)。

  • 食費 1
  • 家賃 3
  • 被服費 1
  • 交際費 2
  • 娯楽費 2
  • 日用品 1

これが、月の収入が15になると、下のように増えると思っていた。

  • 食費 1
  • 家賃 4.5
  • 被服費 1.5
  • 交際費 3
  • 娯楽費 3
  • 日用品 1.5

 

が、多分こうはならない。

「飲み会とか旅行にはめちゃくちゃ金使うけど、服は月5000円も使わん」みたいな人が多少金を持ったからといって服にお金をかけるようにはならん、多分。仮にAさんが上のようなタイプなら、なるとしたらこんな感じか。

  • 食費 1
  • 家賃 3
  • 被服費 1
  • 交際費 5
  • 娯楽費 5

 

なんだか、分かりやすく書こうとしてかえって分かりにくくした感があるが、要は「収入が増えたからといって、その人の生活が全体的にグレードアップするのではなく、金がない時にでもお金を使ってたところにさらにつぎ込むようになるだろうし、興味のないところに使う額は増えない」ということだ。

個人的には、人並み程度には服にもお金を使ってると思うけど、社会人になってもGUCCIのパーカーは買えん。パーカーなんてテキトーに着たいしテキトーに洗いたいもの。

 

久しぶりに書いたらいつにも増してキレのないブログになってしまったが、まあこんなもんだろう。今後に期待。

駐車場から学習室に至るまでのブログ

厳密には学習室から駐車場に至り学習室に戻るまでのブログだ

 

割と早めに気付いた車にパソコンの充電ケーブルを置き忘れてたことには

 

でもパソコンの充電が切れるまでに終わらせなければというプレッシャーがあれば作業が捗るんじゃないかと取りに戻らなかった

 

結局終わらずに研究室から車に向かうことになった

 

より時間の無駄だ今日の夜は僕には冷たい

 

研究棟の自動ドアを学生証で開ける

と思ったら中から人が出てきてドアが開いたお互い大変だな

 

エレベーターにのる汚いベーターである

 

3階

 

ああただいま学習室

もう若者ではない

まだまだおじさんではないと思ってるけど、もうフレッシュではないかもしれないと思わされる出来事が続いたので書いておく。

 

バイト先にて

僕は飲食店でバイトしてるのだけど、お客さんが来ると何となく「自分より年上だな」とか「大学生かな」とかって考えながら接客している。

また、そのバイト先は割とよくバースデーサプライズを頼まれる。ケーキのプレートには「◯◯くん△△才おめでとう!」って書かれてたりするので図らずも年齢が分かってしまったりもする。

 

少し前までは、接客しながら感じてたお客さんの年齢をバースデープレートで答え合わせしてもそんなに間違えることは無かったのに、最近割と外すようになってきた。

間違い方は決まって「想像してた年齢よりも実際は若かった」。

何でかなと考えてみて、下のような答えに辿り着いた。

 

先ず、自分が相手の年齢を推し測るときはいきなり「25才くらいかな」となるんではなくて、「自分と比較」してから推測してる。自分よりはちょっと年上ってぽいから27くらいかな?みたいな。

次に、この「自分と比較」する時の「自分」が21,22あたりから更新されずにいたらしい。これの厄介なところは頭じゃ自分が24才だと分かってるのに感覚的には22才だということ。

この2つのせいで「想像してた年齢よりも実際は若かった」が起きていた。例えば僕と同じ24才のお客さんが来たとして、自分の感覚は22だから「ちょっと年上かな?」と思う。次に自分は24才だから「26くらいかな?」と予想する。そしてバースデープレートにある「24才おめでとう!」を見て、「想像してた年齢(26才)よりも実際(24才)は若かった」。

 

自分で書いててよく分からなくなってきたけど、要は自分の年齢に関して頭での理解と感覚での理解が一致しなくなってきたよ、ということです。

 

鬼滅の刃

どんな流れだったかは忘れてしまったけど、高校生に鬼滅の刃の話をしたことがあった。僕は鬼滅の刃はほとんど知らないんだけど、随分人気だから高校生の反応も良いだろうと思って話を始めた。

が、どうもリアクションが薄い。彼ら曰く、鬼滅の刃は小〜中学生のコンテンツらしい。

 

内面のおじさん化の指標の一個に、「若者の流行が分からなくなる」というのがある。

これには2つの意味合いがある。「若者の間で何が流行っているのか分からなくなる」と「若者の間で流行ってるものは分かるんだけど、それがどんなものか分からなくなる」。

どっちの意味合いでも「」内のようなことを感じ出したらおじさんの始まりなんだろうけど、今回の僕の場合はどっちの意味合いでもアウトだ。

若者(高校生)の間で流行ってる漫画・アニメは鬼滅の刃だと思ってたのに違っていたし、若者の枠組みを小学生まで拡げたとしても鬼滅の刃がどんなものか分からない。

 

まだおじさんにはなりたくない

外見的な老いはあんまり感じないけど、意識して若い文化に触れようとしないとどんどん内面的におじさん化していく気がする。これが24才か。

余談だけど高校生には鬼滅の刃よりもるろうに剣心の話の方が心なしか受けた。なんでだろう。

「資格は取っておいた方がいい」

一般的によく言われる「取れる資格は取っておいたほうがいい」っていうのがあんまり好きではありません。はっきりした理由があるわけではなくて、なんとなく嫌だ、くらいのレベルではありますが。

 

この嫌い具合が10分くらい前にちょっと変わりました、良い方向に。

特に理由もなく、神奈川県(僕は神奈川県が好きです)の私立高校の教員採用の募集を見てみたのですが、思ってたよりもたくさん募集がありました。たくさんの求人を見て「あ、もしも将来的に職を失うことがあっても、仕事はすぐ見つけられるかもしれない」と唐突に感じました。理解したと言い換えられるかもしれません。

「教員免許を持っている」から仕事がたくさんあるわけです。

学部生の頃にも「(将来のことを考えて)一応免許を取っておく」という人はたくさんいましたし、教員免許が職探しの保険になることは知っていたのですが、先ほど仕事を探す人の目線で求人一覧を眺めていったときに、「こんなに仕事がある」と妙に安心しました。まあ待遇は様々でしょうし、そもそも受からないと働けませんが。

 

この安心感が欲しくて、あるいは持たせたくて「取れる資格は取っておいたほうがいい」ということになるんだなと24歳になってようやく理解できた気がします。

 

 

ただ、就職のために資格を、という考えは流行りではないのかもしれません。インターンとか留学だとかを勧める記事をよく見ますし。それでも、インターンあるいは留学で学んだことは主観で語ることになりますが、資格は客観的にアピール出来る点で強いのでしょう(当たり前なことを書いてますが個人的に新鮮な気付きです)。4,6年で社会(企業)に求められる能力も変わるかもしれない一方で、資格は失効しなければ変わりませんし。

資格でなくても、自分の能力だとか実績だとかを客観的に評価できる形で残しておくといいのかもしれません。

 

 

「大卒」「国立大卒」「旧帝大卒」というのもある意味で資格みたいなものです。

よく進学校がその生徒にとにかく名のある大学を受けさせようとすることが批判的に語られますが、この資格の面から見ると(仮に学校側に実績を稼ごうという思惑があったとしても)学校にとっても生徒にとってもウィンウィンです。

国立大学に行けるくらいの学力のある生徒がやりたいことがあるからとよく分からない私立大を志望していたとして、教員としてはやりたいことを応援したいところですが、「国立大卒」の資格を手放すリスクについてもちゃんと説明すべきでしょう。

そのやりたいことは国立大じゃ出来ないのか、やりたいことがやりたくなくなったとき残るものはあるのか。

厄介なのは「国立大卒」の資格を失うことがどういった面でどのくらい痛手なのか、が高校生には(もしかしたら教員も)イメージしにくいところでしょうか。

結果としてとりあえず出来るだけ偏差値の高い大学を勧めてしまうのは仕方ないことかもしれません。

こういうことを考えると社会人経験のある教員が必要だと色んな方面から言われるのも分からないでもありません。ただ個人的には学校の先生くらい、世間ズレしていても理想を語る人たちでいてほしいと思います。生徒に嫌われがちな気がするところが残念ですが。

これが、です。

昨日の余りのチヂミを食べながら僕が言います。

「これがアハハです。」

「うん。」彼女は頷きます。

 

何冊かの本がドサドサと玄関に届くのを聞きながら僕が言います。

「これがえへへです。」

「へぇ。」彼女は羨みます。

 

2008年に生まれた国産車のハンドルを握りながら僕が言います。

「これがワハハです。」

「ふぅん。」彼女は俯きます。

 

アハハ、えへへ、ワハハ。

貧乏な教養人はいない

少し前からこれに行きたいと思っている。

オラファー・エリアソン ときに川は橋となる | 展覧会 | 東京都現代美術館|MUSEUM OF CONTEMPORARY ART TOKYO

この状況なので、このためだけに都内に行く気にはなれないでいる。展示が終わる前に観られるといいんだけど…。

 

昨年度までの自分なら、ここに行こうとは思ってない気がする。でも今は行きたい。

何が変わったのかと考えてみると、恐らく、「少しばかり金を持つようになった」ことが要因な気がする。

 

僕は絵画、音楽、その他芸術に相当疎い。

つい最近フェルメールに少しだけ詳しくなったくらいだ(これも大学院の授業に必要だったから)。

こんな僕なので、見たり聴いたりしても大して何のことだか分からんものに1500円、もしくはもっとお金を払う気なんて滅多に起きなかった。

それが今年度、国からの給付金をそのまま貯金してあったりとか、非常勤講師等の収入はさほど変わらなかった一方で、旅行も飲み会も無くなったことで支出がずいぶん減ったりとか、まぁとにかくちょっと貯金額が増えた。

お金に余裕が出来たことで、「何だかよく分からんけどちょっと行ってみるか」という気持ちになってきた。

タイトルには端的に教養と書いたが、「文化的に豊かな生活」と言い換えてもいいかもしれない。

文化的に豊かな生活を送るためには、ある程度豊かな貯蓄が必要なのかもしれない、少なくとも僕みたいなタイプの人間には。

何をもって文化的とするかは難しいけど、例えば僕の場合はあんまりお金が無くても本を買ったり、美味しいものを食べたり、旅行に行ったりはしたいと思う。ちょっと余裕が出来たから展覧会に行こうと思うようになった。

お金が無くても展覧会には行く、でもお金が出来たから本でも読んでみようかしら、みたいな人もいるだろう。

こんなことを考えると、「教養を得るにはお金が必要」というのはある面では事実である気がする。少し乱暴な言い方だけど。

 

いや、そもそも教養っていうのは昔から上流階級の人たちのものだったか。教養があっても直接生活の糧にはならないことが多いし。

そう思うと、ちょっと背伸びすれば教養に手を出せるんだからいい時代に生まれたかもしれん。

Wirelessの時代でしょ?

アンジュルムの「赤いイヤホン」という曲があります。下の歌詞がきっかけになっただけで記事の内容自体とは直接関係はないのですが、「歌詞が上手いなぁ」と最近思った曲なので興味があればYoutubeとかで是非。

 

Wirelessの時代でしょ? 言わずもがな 人間の愛情もね

だけどどっかで夢見てる 心をつなぐ見えない赤い糸 

 

解説も載せておきます。

www.hoshibe.com

 

スマホ」で「サブスク」の曲を「ワイヤレス」イヤホンで

読んでいただいている皆さんが中高校生だった頃、「外出先で音楽を聴く」時の装備といえば何だったでしょうか。恐らく、「ウォークマンoriPod」で「CDから取り込んだ曲」を「有線」イヤホンで聴いていた方が多いのではないかと思います。

ちょうど僕が高校生になる時にスマホが普及し始めたので、Youtube等で聴く場合もあったかと思いますが、当時は通信速度も速くなかったし、やはりメインはウォークマン等の音楽プレイヤーだったんじゃないでしょうか。

見出しにもしましたが、今の主流は「スマホ」で「サブスク」の曲を「ワイヤレス」イヤホンになりつつあるようです。よっぽどこだわりがなければスマホで充分聴けるし、中高生ならサブスクも月々500円くらいで加入できるのでCD買うよりはるかに安いし、AirPodsとかお洒落だし(高校生曰く使ってる人多いらしい)。

 

定番のシチュエーション

「異性とイヤホンの片方ずつを分け合って音楽を聴く」ってドラマでも漫画でも歌詞でもよくある定番のシチュエーションだと思うのですが、これが定番になっていたのはイヤホンを分け合うというビジュアル的な良さとか、物理的に距離が縮まるとかって要素の他に、「わざわざ買うなり借りるなりしたCDのデータを手間をかけて音楽プレイヤーに移している」ことが前提にあることが大事だったんじゃないか。

上手い例えが見つからないんですが、自分のプレイヤーを見せる(聴かせる)ことって自分の部屋を見せるとか自分の本棚を見せる感覚に近い気がします。手間暇かけて集めたコレクションを開示することで心理的に、イヤホンを分け合うことで身体的に距離が縮まるから定番になった、というのはどうでしょう。

 

ジェネレーションギャップが近づいている気がする

高校生と接していて、今のところあまり世代差を感じることはないです。遊戯王も通じるし、一番やりこんだポケモンはダイヤモンドらしいし、カラオケで髭男歌うらしいし。

それが、もう間もなく上のシチュエーションからギャップができる気がしています。iPhoneには今後もイヤホンジャックはないだろうし、サブスクは今後も続いていくだろうし、安いワイヤレスイヤホンも増えてきたし。

これからのドラマや漫画でイヤホンを分け合う様子が描かれることは減っていく気がしてます。

スマホのサブスクをワイヤレスイヤホンで分け合えばいいじゃないかと言う人もいるかもしれませんが…。手軽に聴けてしまうサブスクの曲を共有して、離れようと思えば何メートルか離れられるワイヤレスイヤホンで…、親密度に欠ける気がしませんか。

 

おわり

中高生との世代差を感じる瞬間が来たとき、「自分はもう若くないのか」と悲しくなるか「そんなことしてたな」と懐かしくなるか、どっちの気持ちの方が強いでしょうか。