巧みなブログ

国語教育を勉強していた社会人一年目のブログ

慰安婦問題について考える(ナヌムの家の不正を取っ掛かりに)

(一気に書いたので読みづらいところ等あると思います。あとで修正・加筆するかも)

学部生のとき、従軍慰安婦問題について、タイトルにある「ナヌムの家」や韓国の大学、資料館等を訪問して大学の先生や学生、元慰安婦の方とお話しする機会をもらいました。

いつか書いておきたいなと思いつつ、デリケートな話題なのでなかなかブログにできずにいましたが、数日前にナヌムの家についての報道があったこと、時期的にも戦争関係の話題が多いこと、帰省していて時間があること等、ちょうどいいタイミングかもしれないと書き始めることにします。

できるだけフラットに、書き振りには注意しますが万が一不快に感じた方がいたら申し訳ありません。それでは。

 

「ナヌムの家」とは

www.nanum.org

www.konest.com

 

下のリンク先を見ていただくと写真付きで手っ取り早くどんな場所か分かるかと思います。元慰安婦の女性が共同生活をする福祉施設+資料館が併設されています。

 

ナヌムの家についての報道

あんまりテレビでは報道されていないような気がしますが、数日前に下のようなネットニュースが掲載されました。

 

news.livedoor.com

 

慰安婦の方のためにと寄付・支援されたお金を不正に流用したり、職員の入居者へ暴言があったとのことです。単に不正流用というだけでも十分悪いのですが、ナヌムの家のために使われたのはたった2.3%(大体2000万円くらい?)というのだからさらにびっくり。見方を変えればたった2.3%分で施設が運営できるということなのでいかに慰安婦ビジネスがお金になるかを見せつけられたように感じます。

 

韓国を訪れたときに感じたこと、考えたこと

ここからナヌムの家の話題を離れ、冒頭で書いた学部生のときの経験について、備忘録を兼ねて少し書いていきます。

慰安婦の女性(とその周辺の人たち)

韓国滞在中に元慰安婦の方と直接お話し(もちろん通訳越しですが)させていただきました。日本でも戦争経験の記憶・記録の継承が難しくなっていると(この時期は特に)話題になりますが、韓国の慰安婦問題に関しても全く同じことが言えます。当事者である元慰安婦の方々は当然高齢になっており、まだ存命で、かつ自身の経験について話すことが出来る状態の方はこの数年でどんどん減っているとのことです。

こういった状況にある元慰安婦の女性ですが、一枚岩ではありません。

日本のテレビの報道を何となく見ていると、元慰安婦の人たちは一致団結して自分たちの主張を述べているように見える(少なくとも僕は見えていました)のですが、実際はそんなことはありませんでした。

慰安婦のなかにも、心から自分の経験を正しく国内外に伝えたいと考えている人から、お金や待遇目的に活動している人まで様々とのことです。また本人にその意思はなくとも、お金が欲しい親族に利用されている(詳しくは忘れてしまったのですが、慰安婦であるというだけで国から支援金がもらえるのだとか)人もいるようです。

政治家が支持率回復のために慰安婦問題を利用しているという話もあります。お金のために国に都合の良い証言をする人もいるのかもしれません。さらに、もう間もなく証言できる人も、その証言が嘘か本当か判別できる人もいなくなります。

韓国の大学生

大学を訪問し、ソウルの大学生と意見交換もしました。印象的だったのは、ソウルの学生でさえ、程度の差はあれど少なくとも慰安婦問題については「日本が加害者であり韓国は被害者である」という意識が根強くあることが窺えたことでした。

誤解を招きそうなところなので丁寧に書きます。

まず、韓国の大学の分布についてです。日本は旧帝国大学のように全国各地に主要な大学が点在しているため、学生も各地に散らばっていきます。一方で韓国は主要な大学はほとんどソウルに集中しているとのことでした。ソウルでない大学に通っているから優秀でないという訳ではないのですが、ソウルにいる学生は他の地域と比べて賢い傾向にあるとは言えると思います。

そんな賢い学生なので、僕が話した人たちも慰安婦問題に限らず色々なことについて、感情論にならずに客観的に、冷静に考えることのできる人たちだったはずです。実際、冷静で建設的な議論が出来ていたと思います。それでも、僕は冷静な彼らの底にある「自分たちは被害者側だ」という意識を感じたように思います。その日の意見交換に参加してくれた学生は日本語学科の学生が多く、日本語が堪能で日本(と韓国の関係)に関心の強い学生だったこともあってか、底にある感情に触れやすかったのかもしれません。

韓国の受験戦争を勝ち抜いた、国内でトップクラスに優秀で、言い換えるならトップクラスに冷静で、かつ僕と同世代ですから戦争なんて随分遠くに感じる人たちからですら、上のようなことを感じるのだから、一般的な韓国人はより強く明らかに被害者意識を持っているんだろうとそのとき感じました。

恐らく、日本人にとっての原爆問題と近い感情なんだろうと思います。この時期は毎年テレビでも特番が放送されますし、教科書から、家族から、小さいころから刷り込まれます。日本人のほとんどは「日本人はアメリカに原爆を落とされた被害者である」とどこでだれに教わったか覚えていないけどいつの間にか考えるようになります。

他の色々な国でも、こんなに大きな問題でなくても加害者よりも被害者の側の方が記憶にも記録にも残りやすいものでしょうから、自然な現象ではあるにしても実際に目の当たりにすると驚くというか、再確認させられました。

韓国の高校

高校を訪問し、歴史の授業を見学させてもらいました。

僕は高校では理系のクラスにいたため、近現代史は中学校以来受けていないのですが、少なくとも中学校で慰安婦問題について詳しい説明を受けた記憶はありません。

対して、訪問した高校では年度や担当教員によって差はあるものの、数時間を慰安婦問題に充てるとのことでした。しかも座学メインでなく生徒同士のディスカッション等がメイン。

個人的にこのあたりを詳しく調べていたのですが、日本の現行の教科書(中学社会、高校世界史日本史)には慰安婦に関する記述は1ページあればいいほうで全く記述のないものもあります。記述のある教科書でも慰安婦に関連する語句は太字で示されていない(重要語句扱いでない)ため先生によってはスルーしてしまう人もいるかもしれません。(読んでくれている方へ。もしよければコメント等で自身の受けた授業はこんなものだったと教えていただきたいです。)

他にも、日韓で学ぶ機会に差ができつつあります。

 

www.wowkorea.jp

 

日本でいうセンター試験の制度が最近変更になりました。これまでは「韓国史」の科目は必修ではないうえに、他と比較して得点が取りづらい科目だったらしく、高校生全体の履修率は数%程度だったそうなのですが、制度の変更により韓国史が必修になりました。韓国の、少なくとも大学受験を目指す生徒は全員が韓国史を履修することになります。教科書の内容が変わらなければ、「得点が取りづらい」韓国史は時間をかけて勉強することになるでしょう。目的が大学受験だったとしても、結果的には今までより多くの生徒が慰安婦問題についても勉強することになるかと思います。

韓国の教科書は、被害者の合計人数など「ホントか?」と疑いの余地がありそうな記述もあります。日本の教科書が「100%事実であるといえること以外は記載しない」というスタンスをとっているとしたらそれはそれで良いことだとは思います。それでも、今まさに日韓で問題になっている内容についてほとんど触れないというのはよくないんじゃないか。最低限の基礎知識ですらここまで日韓で学ぶ機会に差があると、メディアの報道にいいように踊らされてしまうのではないか、不安になります。

まとめ
  • 慰安婦被害の当事者は間もなく誰もいなくなる。
  • 残った親族はお金のために嘘を言うかもしれない。
  • 韓国人には当然被害者としての意識が残っている(日本人に加害者としての意識は薄い)。
  • 韓国の子どもは問題について学ぶ機会が増えてきている一方で、日本の子どもは学ぶ機会がほとんどない。

問題の解決は遠い先の話に思えます。しかし、先に延ばせば延ばすほど解決が難しくなるのではないか。

おわり

少しかじった程度の知識しかないため、最後にカッコいいことも言えはしないのですがもう少しだけ。

この記事だけを読むと韓国人に良くない印象を持ってしまうかもしれませんが、全くそんなことはありません。学生をはじめとして、他愛ない話をしているときは友好的で親しみやすい方が多かったです。だからこそ、いつまでもお互いの根底に慰安婦問題が残り続けていくのは悲しいなと思います。

社会ではないにしても教員になる以上、せっかくの経験を大事に自分の中でいろいろと考えようと思います。

早くビニール傘を使いたかった

幼少期の僕にとって、大人の象徴だったものが2つほどある。1つはボトルガムで、初めての給料でこれを買うと心に決めていた(大学1年の塾講師のバイト代で達成された)。残るひとつがビニール傘である。

 

全国大体そうだと思うのだが、僕が通った幼稚園や小学校の登下校の際には派手な黄色の傘を使うことになっていた。

男子はあれを振り回しつつ下校するため、傘の先端にたくさん傷が付いたり酷い時には折れてしまうこともある。学校の傘立てには、先っぽが折れたわんぱくな傘から新品でもないのに傷らしい数のないおとしやかな傘まで様々に立てかけられていた記憶がある。

こんな黄色い傘で楽しく登下校していた僕だったのだが、いつ頃からかこの傘を急に恥ずかしく思うようになった。細かくは覚えていないが、テレビに映る大人の男性はみんな透明な傘を使っていることに気付き、途端に自分の黄色が恥ずかしくなってしまった。

 

中学校に上がると黄色指定は無くなったのだが、透明な傘は使っていなかった気がする。母にコンビニの透明な傘が欲しいとお願いした記憶はあるので、母に止められたのだろうか。まぁ、急に息子がコンビニのビニール傘をねだってきたらちょっと不審に思うかもしれないし、今にして思えばすぐに壊れるコンビニのビニール傘をわざわざ買い与えはしないだろう。 

 

結局、初めてコンビニでビニール傘を買ったのは大学に入ってからだった。バイト代で服を買いに行こうとわざわざ遠出した日に急な雨に振られたのをよく覚えている。上で書いたような思い出はすっかり忘れていたのだが、レジでお金を払い、店先で傘を開いた瞬間に一気に記憶が蘇り、不意に大人になった気分になった。 

 

以来、何かしらの理由を付けてコンビニのビニール傘を買ってしまう。紺やカーキの傘をさすよりも、ビニール傘をさしている自分の方が大人な気がするから。期待通り?にビニール傘はあっという間に壊れるため残念ながら今は手元に1本もない。

 

小さい頃に思い描いていた「ビニール傘を使う大人な自分」にはなれた。まだあんまり欲しいとは思わないが、高機能だったりブランド物の傘が欲しくなり、それを使う頃にはもう一歩大人な自分になっているかもしれないと思う。そんな傘を手にする瞬間に、今書いているこのブログのことを思い出せたらいいな。

 

包丁を入れられる瞬間の桃の気持ちを伝えるだけ

ねぇ。ちょっと早いんじゃないかしら?

何がって?決まってるでしょ、「桃に包丁を入れる瞬間」が、よ。

あんまりぞんざいに冷蔵庫に放り込まれてたものだから、てっきり熟しすぎるくらいまで忘れられるのかと思ったわよ。それが何?思いついたみたいに私のこと鷲掴みにしたと思ったら、あなた食べごろも分からないわけ?…ほら!「ちょっと早いかな」みたいな顔したじゃない!

 

そもそもね、私の扱い方がなってないのよあなた。何で隅っこのほうに置くのよ?匂い移りしないように、って気遣いは良かったけど、あんなところに置いたらあなた、私のこと忘れちゃうでしょ?

近頃は野菜室に入れる男も多いわね。桃だからって何も考えずに突っ込むんでしょうけど、野菜室に入った経験が一回でもあるのかしら?あんなにぎっちり押し込まれて、狭いったらないわ。あなたたち事あるごとにソーシャルディスタンスとか喚いてるくせにこっちのディスタンスはお構いなしなのかしら?

特に夏野菜って暑苦しい奴が多いのよ。トマトなんて最悪ね、一昔前までは不人気だったからか「桃さん桃さん」って会うたびに大人気の私にすり寄って来たくせに、最近ちょっと人気だからってすっかり調子に乗っちゃって。私、コロコロ態度が変わる野菜が嫌いなのよね。あなたもあと2,3年したら部下を持つでしょうけど、上司へのイライラを部下にぶつけるんじゃないわよ。粛々と穏やかに過ごした私を見習ってよね。

だから、私の好みは冷蔵庫の下段中央なの。野菜室とか冷凍庫と近いから適度に冷えるけど、それでも野菜室よりもすぐに熟れちゃう。だから、あなたもきっと私のことが気になって毎日見にくるでしょう?次は冷蔵庫の扉を開けるたびに私のこと思い出せるように、下段の真ん中においてよね。

 

でも、隅っこで良かったわ。結果的にはね。

気付いてる?電車であなたがどさってリュックを置くものだから、私のあたまに傷がついてるの。若い桃をあんな風に扱うなんて信じらんない!がさつな街に住んだせいで、街の気質がうつったんじゃない?

こんなぶさいくな私、誰にも見られたくなかったわ。せめてあなたでよかったかも。あなたに私を渡した女の子になんてとても見せられない!「綺麗に美味しく熟れるね」って約束してたのに…。

 

包丁、洗い終わったの?じゃあ、おしゃべりはおしまいね。

また会うことがあったら、今よりもっと綺麗で美味しい私にしてね。

Jabra Elite 85h APAC pack のレビュー

レビューといえるほど大したことは書けないと思いますが、このヘッドホンについてのレビューが同じくらいの価格の他のワイヤレスヘッドホンと比べて少ないように感じたのでどこかの誰かの役に立つかもしれない…という思いで頑張ります。

ワイヤレスヘッドホンを探し始めたきっかけ

部屋では主にSHUREのSHR440を使っていました。が、ケーブルの調子が悪くなったため、それ以来同じくSHUREのSE215で音楽を聴きながら作業していました。

ヘッドホンを恋しく思いつつも、まあお金もないしとSE215を酷使した結果、こちらもケーブルの不調を感じさせるようになってきました(先日完全に断線しました)。

「さすがに買い替え時か…」と久方ぶりにヘッドホンに関して情報収集を開始。SHR440もSE215もケーブルを代えれば復活するのですが、それはそれとして、新しいものが欲しくなってしまって…。

こういった経緯でワイヤレスヘッドホンを探し始めました。厳密には作業用ということもあり、ノイズキャンセリング機能のあるワイヤレスヘッドホンに狙いを定め、候補を絞り込んでいきました。

候補に挙がったのは…

SONY WH-1000XM3

SONY WH-CH710N

BOSE NOISE CANCELLING HEADPHONES 700

・Jabra Elite 85h APAC pack 

上記の4つに絞りました。ここまで絞ったときの気持ちとしては「値段を考えるとCH710Nかなぁ…評判も良いみたいだし…。でもせっかく買うし多分この先5年くらいは使うだろうから良いやつ買いたいな…でも他のはちょっと高いな…。」といった感じでした。

 

Jabra Elite 85h APAC pack にした決め手

ワイヤレスノイズズキャンセリングヘッドホン | Jabra Elite 85h

 

決定打は値段でした。ビックカメラの特売でゴールドのみ約18000円で売られており、この値段で買えるならば、と購入に踏み切りました。しかし、特売だったから買いました、では何の参考にもなりませんので他の3つをボツにした理由について少し触れたいと思います。

SONY WH-1000XM3

音が好きじゃなかった。コレです。SONYの製品は近所の家電量販店でも視聴できるので発売されたときにも聴いて感じていたことではありましたが、他と聴き比べるとやはり好みではなく、なんとなく膜があるように聴こえるというか。しかし、ノイズキャンセリング機能は抜群でした。この機能に限っていえば一番だったように思います。

 

SONY WH-CH710N

 

 

 

やはり他と比べると音にしても着け心地にしても見劣りします、当然ですが。先述したようにせっかくだからいいものを買おうと思っていたこともあり、却下。しかし10,000円の予算で探すのなら良いものだと思います。印象も含まれますが、10000円以内のワイヤレスヘッドホンで信頼性が高いものは多くないのではないでしょうか。その点「安い」「ワイヤレス」「NC」「SONY製」のヘッドホンですから、安心感があります。

BOSE NOISE CANCELLING HEADPHONES 700

予算オーバーでした。どんなに頑張っても5万弱はちょっと出せなかった…。

BOSE製品への憧れは別の機会に叶えたいと思います。

 

と、最終的に WH-1000XM3との二択になりましたが、特売により価格面で倍以上の開きができたため、Elite 85hに決定。どちらも定価だったら1000XM3だったかもしれません。

使ってみての所感

 

 

冒頭にも書いたように大したことを言えるほど詳しいわけではないため、感覚的な部分が多く含まれます。ご了承ください。

ノイズキャンセリング機能

他の方も書いていますが、効果の大きさはSONYBOSEのものの方が強力だと思います。かといって不十分というわけではなく、日常生活のなかで使う分にはしっかり外の音をシャットアウトしてくれます。満員電車とか飛行機とか、「雑音」ではなく「騒音」を消したいという方には上記の他社製品が適しているかもしれません。

 

・質感

布っぽい生地が使われています。これのおかげで他の候補機種よりもお洒落な見た目になっています。一方で汚れが目立つだろうという不安があります。防水機能もあるとのことなので汚れたら水拭きしたいと思います。僕のように基本屋内で使うぶんにはそれほど神経質にならなくてもいい気がしますが、屋外で使いたい方等は多少の汚れは覚悟した方がいいかと。

・対応コーデック

爆安だったにも関わらず即決できなかった理由の一つでもあります。SBCとAACのみ対応。詳しくない癖に細かいところが気になる性分でして、ちょっと引っ掛かりました。が、幸いスマホは今も恐らく今後もiPhoneだし、そんな細かい違いは分からんだろうと気にしないことにしました。androidの方はご注意ください。

HearThrough機能

個人的にはあまり使いませんが、家族がいる方等、周りの音も聞こえるようにしたい方には便利なのかも。

・Sound+

専用のアプリ上で音を調整したりできます。基本的にずっと低音ブーストです。

アプリ内で雨の音等の環境音を12種から選んで流せます、意外と良い。

その他「iPhoneを探す」みたいな機能があったりします。

・電源ボタンがない

これが予想以上に快適です。閉じている?状態のヘッドホンの耳にあたる部分を回転させると自動で電源が入り、プレイヤーと接続されます。そしてまた閉じるとオフ。便利。

・音質

詳しくはamazon等の他の方のレビューを是非。個人的には他の候補より好みの音でした。

 

おわり

ラッキーなことに爆安で購入できてしまいましたが、通常価格だったとしても以下のような方におすすめできるのではないかと思います。

・ある程度のクオリティのものが欲しい

SONYBOSEの音が好みでない

・他機種にはない機能を使ってみたい

・他の人と被らない、お洒落なヘッドホンが欲しい(北欧製)

最後が意外と大事なのではないかと思います。もちろん機能面も重要ですが、安くない買い物ですし、所有欲を満たしてくれることもポイントの一つかと。ワイヤレスヘッドホンを使いたいときって、穏やかに音楽を楽しむというよりは外の雑音に負けずに頑張るぞ、という場合の方が多いと思いますので、そんなときに見た目でもモチベーションをあげてくれるElite 85hを大変気に入っております。

 

 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

テリーのワンダーランド好きはイヤホン・ヘッドホンも好き説。

 

昔から「自分だけの○○を探せ!」みたいな文句に弱いです。

テリーのワンダーランドについては詳しい説明を省きます。ドラクエの派生作品です。

配合を考える楽しさ

GB版をやっていたのは小学生の頃だったので当然スマホもないし、自宅にパソコンも無かった頃なので攻略情報とかを全く調べずにプレイしてました。

僕を惹きつけたのは「配合」というシステムです。自分のアイデア次第でオリジナル(限界はありますが)のモンスターを育てられるというもので、スライム系×鳥系=はねスライムとか、鳥系×ドラゴン系=キメラとか未だに組み合わせを覚えてるくらい熱中してました。特によく使ってた鳥系は強く記憶に残っています。

例えば、ホイミ(回復)の使える「ホイミスライム」(A)と、ラリホー(補助)の使える「ドラキー」(B)がいます。この2体を配合するとホイミラリホーも使える、つまり回復も補助も出来る「はねスライム」(C)というモンスターが生まれます。

⑴A+B=C

ということになります。親から受け継ぐとくぎの他にせいかくとか子自身のとくぎもあるので厳密にはA+B=C(A+B)みたいな書き方がいいのかもしれませんが、テリーのワンダーランドをやったことないとイメージしにくいと思うので分かりやすく⑴でいかせてください。

さらに、ホイミスライムと組み合わせるモンスターをドラゴン(D)に変えるとキメラ(E)生まれます(分かりやすくするために血統は省きます)。

⑵A+D=E

後から詳しく書きますが、これのポイントは組み合わせるAとBはどんなモンスターか知っていても、生まれてくるCについては実際に育ててみないとどんなモンスターか分からないということです。先に書いたように攻略情報にはノータッチだったので。「こいつとあいつの組み合わせからどんなモンスターが生まれるんだ?」というワクワク感がたまらなく好きでした。

イヤホン・ヘッドホンを考える楽しさ

さっきの⑴⑵を使って書きたいと思います。

こちらではウォークマン(A)、ウォークマン買ったらついてきたイヤホン(B)、聴こえる音(C)とします。

 

A(ウォークマン)+B(ついてきたイヤホン)=C(聴こえる音)です。

ここでついてきたイヤホンをBと比べて低音が弱いけど高音が綺麗な別のイヤホン(D)に変えると、聴こえてくる音がEになります。

A+D=Eです。

 

モンスターと同様に、いやそれ以上に、イヤホン・ヘッドホンと、DAPと呼ばれるウォークマンiPhoneのような音楽プレイヤーには無数のバリエーションがあります。

つまりここにも「このイヤホンとあのDAPを繋げたらどんな音になるんだ?」があるわけです。

 

牧場に放置してた「おおにわとり」とお見合い勧められた「ライバーン」配合して生まれた「ロック鳥」、めっちゃ強いじゃん!

家に余ってたイヤホンをウォークマンに挿したら、聴こえてくる音、めっちゃいいじゃん!

この感動、ワクワク感は僕の中で近いところにある気がします。

 

しかも、モンスターに関しては客観的なステータスやとくぎをもとに強いモンスターを作ろうとするとある程度組み合わせも絞られてきてしまいますが、音に関しては「これとこれを組み合わせるといいですよ」というのはあるものの、良い悪いを判断するのは各人の主観的・感覚的な耳であるため、他の人には微妙な音でも自分にとってはめちゃくちゃいい!ということもありうるわけです(逆もしかり)。

やや誇張しますが、無限の組み合わせの中から自分の好きな音を追究できるんです。もちろん予算面で限界はできますが。

ロックを聞くときはA+B、Jポップを聴くときはA+D、みたいな使い分けもできます。

おわり

こんな感じで、「無数のパーツを組み合わせて自分好みを探していく」楽しさに僕は惹かれたんだろうと思います。

もし興味が沸いたら是非eイヤホンやビックカメラ等で色々試聴してみてください。僕に聞いてくれたら喜んでしゃべります。

余談ですが僕のGBSPはいまだに動きます。もう20年近く使っているのに、さすが任天堂ですね。

 

 

 

SHURE SE215との思い出

更新をサボっているうちに梅雨が明けました。

基本的にずっと自室にいるので「25度曇りジメジメ」みたいな、エアコン点けてもイマイチ効いてるんだか効いてないんだかわからない気候よりは「30度カラッと快晴」のほうがいっそ快適に過ごせる気がします。僕の部屋が一階だからかもしれません。

SE215って知ってますか

 

このイヤホンの型番がSE215です。

厳密には僕が持っているのは水色ではなく黒いやつなんですが、生産終了しているよう(マイナーチェンジ?してほぼ同じものもあるみたい)なのでこちらを貼っておきます。

マイナーチェンジ版。

 

発売が2011年とのことですが、いまだに売れているらしいすごい奴です。イヤホン類は好きですが語れるほど詳しくないので、どうすごいのかについて興味のある方はリンク先のレビュー等を是非見てみてください。

 

僕はこれを高校2年生の夏に秋葉原のeイヤホンで買いました。

その頃には既に「良いイヤホンが欲しければとりあえずこれ買っとけ」みたいなことがいたるところで言われてるくらいの定番商品でした。何を選ぶにしてもまず定番からチェックする性格は当時から変わりませんね、良くも悪くも。

調べた結果、「どうやら定番の人気商品らしい」「スケルトンがカッコいい」「コードを耳に掛けるのが玄人感ある」とすっかり魅了されたのですが、ネックだったのか値段。大体12000円くらいとバイトもしてない高校生にはちょっと手を出せませんでした。

12000円は買えないなぁと思いつつも、とりあえず聴き行こうと部活後に愛用のウォークマンを携えて電車に乗り、移転前のeイヤホン秋葉原店へ。イヤホンから話が逸れますが、当時のeイヤホンは今より「男の趣味の店」って感じだった気がします。店内にところせましとオーディオ機器が陳列され、同じくらいところせまし並んだイヤホンを試聴する汗臭い男性、秋葉原イズム濃縮還元、みたいな。それが今や移転して店内も広くなり、照明も明るくなり、女性客もちらほら見かけるようになりました。お店自体が入りやすい雰囲気になったことも大きいと思いますが、スマホが普及したことで女の人のイヤホン・ヘッドホン需要が増えたのかもしれません。

ともかく、SE215の他にも手が出せそうなイヤホンを端から聴いていったのですが、やっぱりSE215が良い。店員さんも店内のポップもSE215推し。どうしようかと悩みながら、ダメもとで中古商品のコーナーに目をやると、6000円強で売っているじゃないか。外箱が無いとはいえ、ほぼ未使用品で半額!即決でレジへ持っていき購入しました。

翌日、同じクラスの友人にこれ凄くいいから聴いてみてと大いに盛り上がった結果、友人のうち2人が全く同じものを買っていました。

多分二度と同じ感動は味わえないと思う

まだ学生とは言え、大人になってしまった自分は、今後たとえ車とか家とかを買ったとしても同じような感動はもう味わえないかなと思ってます。部活後の制服のまま移動するちょっとソワソワした感じとか、限られたお小遣いをやりくりしたりとか、学校の休み時間に同じ趣味の友達と盛り上がったりとか。

情緒的なことの他にも、初めてちゃんとしたイヤホンで聴いたとき以上の機能面の感動はよっぽどお金を積まないと得られない気がします。

このあたりを全部ひっくるめて、こいつは得難い経験・思い出をもたらしてくれました。5年以上に渡ってどうもありがとう。

おわり

長らく働いてくれましたが遂に断線してしまったので、思い出を振り返ってしまいました。

 

 

 

蒸し焼きミッドナイト(コストコの冷凍餃子編)

 

夕飯はシャワーの後に食べたい派だ。

これは中高と部活を終えて帰宅したら「夕飯の前にお風呂入ってきなさい」と何かの台詞のような文言を毎日母から浴びていたからかもしれないし、満腹感(さらにはほろ酔い)の幸せそのままに眠りたいからかもしれないし、はたまた食前に入浴した方が健康に良いとどこかで読んだからかもしれない。

ともかく、夕飯はシャワーの後に食べたい。

 

ここで一つの問題が立ち現れる。シャワー後は「オフ」になるのだ。このことについては多くの人に共感してもらえるのではないかと思う。僕は、自称24歳日本人男性No.1 ON・OFFer(オン・オファー)であるので特にこの傾向が強い。

つまり、風呂場から出た後に料理なんかしたくないのである。

夕飯はシャワーの後に食べたい。しかし、風呂場から出た後に料理なんかしたくない。

母のありがたみと一人暮らしのうら寂しさが不意に襲ってくる。早く梅雨が明けないかな。なんだか喉が渇いてきた。

 

氷を取り出そうと冷凍庫を開けた僕の目に、コストコの冷凍餃子の赤いパッケージが飛び込んでくる。

これだ。

さっきまで頭の奥で聞こえていた雨音は遥か彼方に追いやられ、寂しさの代わりにぼんやりとした充足感が満ちてくる。何せ24歳日本人男性No.1 ON・OFFerだ。切り替えの速さには定評がある。

 

冷凍餃子の大袋を取り出し、調理を始める。油を敷いた小さなフライパンに餃子を並べたら、ちょっと多めの水を張り形の合わない鍋蓋で大雑把に蓋をする。そして加熱スタート、冷凍庫を開けてからここまで4分弱だ。

さぁ、シャワーを浴びよう。体がきれいになる頃には餃子もキレイなあめ色になっているはずだ。髪を洗い、洗顔に辿り着いた時に家庭科の授業で火から目を離すなと習ったことを思い出したがいまさら遅い。

風呂場を出た。若干の不安を抱きつつ、フライパンの様子を伺う。

 

餃子が出来ているではないか。

火を止めて皿に移す。僕は比較的大らかに料理をするため、ほとんど工程のないこの餃子であっても毎回違った出来栄えを見せてくれる。今回はややパリパリだ。

ごま油と醤油とラー油をまとった餃子が胃に収まっていくにつれて、不確かだった充足感は餃子の皮のような薄くも伸びやかな輪郭を帯びていく。

 

怠惰な願望を叶えてくれてありがとう。君のためなら、毎年4000円払い続けてもいい。

おわり

 

コストコの会員の方は是非冷凍餃子を買ってほしい。50個入りのやつだ。

 

双眼鏡のある生活

ちょっと嘘をつきました。こんなカッコいいタイトルを付けられるほど使いこなしてません。

PENTAX 8×21 UCF R

少し前にこんな双眼鏡を購入しました。

 

レビューを見ると大体の人が

  • スポーツ観戦
  • ライブ
  • 野鳥観察

のいずれかのために買っているみたいです。僕も上2つのために手に取りました。

  1. 高くないものがいい
  2. 重くないものがいい
  3. 8倍〜10倍くらいかな?
  4. よく分からんがダハ式よりもポロ式がいい

ちょっと調べてオススメされているものの中から上のように絞り込みました。

が、この状況でこういったイベントが全てなくなってしまいましたので、冒頭に書いたように当初の目的では全く使えていません。

何でもない景色が何でもなくなる

買ってからはもっぱら景色を見るために使っています。パソコンの画面を見ている時間が長いのでちょっと休憩に窓から遠くのものを見たり、特筆すべきことのないようなものでも双眼鏡越しに見ると違った味わいがあってちょうどいい気分転換になります。

個人的に感動したのは立体的に見えることです。当然といえば当然なんですが。例えば一眼でズームしてもそこから見えるのは平面の風景なんですが、双眼鏡はレンズが2つあるので立体的に見えます。当たり前のことですが実際に見てみると予想外に感動しました。

おわり

早くアパート周りじゃなく景色の綺麗な所とかサッカースタジアムとかライブ会場で使いたい。

「もっと高倍率のものを」とか「手ぶれ補正があるものを」とか、つい上を見てしまいそうになりますが、弓道の道具とカメラ関係とハロプロに加えて双眼鏡が加わるといよいよ四方を沼に囲まれて沈んでいきそうなので退路は確保していきたいと思います。

 

部活動(もしくは顧問)は廃止すべきか

何となく、しばらくしたら部活動問題が流行る気がするので先取りして書いてみようと思います。ぜひ自分の部活体験と照らし合わせながら読んでみてください。今季のテーマはやっぱり「流行りを作る」です、よろしくどうぞ。

1.はじめに

出来るだけフラットに書きたいとは思うのですが、僕はどちらかと言えば先生が部活の顧問をやることに賛成派の人間です。そんな奴が書いた文章だと思って読んでいただけると幸いです。

皆さんそれぞれの学校生活を振り返っていただくと、良い思い出にしろ悪い思い出にしろ、「学校生活の思い出」の中で部活動の占める割合は少なくないのではないかと思います。

僕自身も中~高ともに運動部に所属して部活漬けの日々を送っておりました。幸せなことに良い思い出が多く、今の自分の人格は部活を通して形作られた部分がかなりあるように感じています。

今でこそ国語教育の勉強をしていますが、高校に入ってしばらくは学校の先生が苦手、はっきり言ってしまえば嫌いでした。それが「教員になろう」とまで思うようになったのは部活の経験が大きいです。

2.部活動ってそもそも何なのか

学習指導要領の総則を見てみると、部活動について下のように書かれています。

教育課程外の学校教育活動と教育課程の関連が図られるように留意するものとする。特に,生徒の自主的,自発的な参加により行われる部活動については,スポーツや文化,科学等に親しませ,学習意欲の向上や責任感,連帯感の涵養等,学校教育が目指す資質・能力の育成に資するものであり,学校教育の一環として,教育課程との関連が図られるよう留意すること。その際,学校や地域の実態に応じ,地域の人々の協力,社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行い,持続可能な運営体制が整えられるようにするものとする。

と記載されています。このような効果が期待される一方で、「教育課程外」とあるように、中高の部活動は教育課程には含まれていません。教育課程に含まれていないということは、含まれている教科の学習であったり道徳や生徒会活動とは違い、極端な言い方をすればやらなくてもいい活動ということになります(仮に部活動が教育課程内であったなら「帰宅部」は認められず、全員何かしらには入らなければいけません)。教職教養を思い出しますね。

ざっくりまとめると部活動というのは「やるといいことがたくさんあるけど教育課程外だから、必ずやらなくてもいい。だけどやるなら学校教育の一環でやらなきゃならない」活動といった感じでしょうか。

ちなみに小学校のクラブ活動は教育課程内なのでみんなやらなきゃダメです。

3.部活動をめぐる諸問題

上記のような位置づけの部活動ですが、悪いほうで話題になることも多いです。いくつか紹介します。

1. 体罰

数年おきにメディアで大々的に扱われるような体罰が起こっています。例えば下のようなものとか。

桜宮高校体罰「自殺」事件 初公判で公開された“殴り続け”映像 (1/2) 〈週刊朝日〉|AERA dot. (アエラドット)

事件になっていないよな軽い体罰は今でも全国色々なところで起こっているのではないでしょうか。

2. 顧問の労働時間

最近教員の労働時間が話題になることが増えてきたように思いますが、部活動(の顧問)はその問題の中心にあることが多いです。

3. (実質)強制加入

部活動は入らなくてもいいものであるはずなんですが、学校によっては全員何かしらの部に入らなければいけないところもあります。また、こんな決まりはない学校でも、周囲の目を気にしたり、入らないと友達が作りづらい等の理由で、「部活は基本みんなはいるもの」のような雰囲気がある学校もあります。僕の中学校は後者でした。

4. 部活を望む保護者

2.と少し重なる内容ではありますが、部活に入っていた方が入試や就職に有利(実際のところはわかりません)と考えていたり、家に子供がいると色々面倒と考えている保護者は少なからずいるようです。例えば「前の顧問のときは土日も部活があったのに今の顧問は休みにしてる!」みたいなことを言う保護者がいるかもしれません。

4.部活動指導員

あんまり話題になりませんが「部活動指導員」という制度が最近出来ました。

部活動指導員とは│教員でなくても部活の顧問にもなれる外部の指導者

これまでも顧問の他に「外部指導員」みたいな名前で部活の指導をしている人はいましたが、この部活動指導員は下のような違いがあります(上のリンク先から抜粋)。

 

  従来の外部指導者 部活動指導員
身分 法律上不明確 学校教育法が定める学校職員
役割 教員の顧問の技術的指導を補助。校外の引率は原則不可。 教員に代わり部活動の顧問ができる。校外の引率も可能
謝礼 無償、有償など自治体によってばらばら 有償
指導者研修 規定はばらばら 義務

 

 

高校とかにいた物理とか体育とかの授業だけを担当する、「非常勤講師の部活版」がイメージとしては近いでしょうか。

一見よさげな制度に見えるのですが、例えば下のような問題があります。

①部活中に事故があったとき、責任はだれがとるのか

②謝礼が大学生のバイトよりはマシ、といったくらい

③お金が発生することで学校や保護者から指導の効果を期待されないか

他にもありそうですが、この3つを併せて考えただけでも例えば「部活中生徒が怪我をしたら責任を負わされるかもしれず、大会で結果を出さないと文句が出そうな、時給2000円の仕事」なんてやってくれる人は多くない気がします。加えて1週間のなかで部活が行われる時間はまあ10~15時間くらいでしょうから、多くても週給約30000円ということになります。部活動指導員だけで生活するのは厳しいです。そうなるとメインターゲットになるのは退職した高齢者の方?人口の多い都市部は見つかるかもしれないけど、田舎でこんな条件をのんでくれる例えばハンドボールの指導者は見つかるでしょうか?

また、一応というか、大学で免許を取るために色々と勉強したはずの教員でさえ体罰を起こしたりしてるのに、ちょこっと研修を受けただけの指導員が大なり小なり問題を起こさないというのは考えにくいです。

5.地域クラブ等を盛んに

こんな提案もあります。

例えば、スポーツなり文化活動なり熱心に活動したい人は民間の地域クラブで専門的な指導を受け、週に2回とかで気軽にやりたい人は学校の部活で、といったような住み分けが出来ればいまあるような問題は解決できるかもしれません。

ただこれに関しても、地域格差や所得格差が問題になってくるように思います。

人口の多い都市部ならマイナーなスポーツ等でもクラブは設置できるでしょう。ですが、田舎ではクラブが運営できるだけの参加者が集まらないでしょうし、参加者が集まらなければお金も集まらずクラブは廃止せざるを得ません。民間ですからね。

家の近くにクラブがあったとしても、お金が払えなければ参加することは出来ないことが多いと思います。民間なので。

茨城県の田舎に生まれ、テニスがすごく好きだけど、近くにクラブはないから仕方なく学校の部活でテキトーにやる」人や「東京で生まれ、サックスがやりたいけど、近くのクラブは月謝が高いし、サックスは自分で買わなきゃならないから学校の部活でテキトーにやる」みたいな人が今よりも増えるかもしれません。

6.雑感

「部活動はこうすべきだ!」と確固たる意見があるわけではないので、ここまでを踏まえてだらだらと書きます。

部活の公共性

5.で書いたことに重なりますが、学校の部活のすごい所って誰でも、どこに住んでいても、学校の生徒であるだけで好きなことをする環境が提供されることだと思います。もちろん全てではありませんし、全くお金がかからないわけでもありませんが、多少なりとも指導が受けられて活動場所も設備も使うことが出来るのは、当たり前に感じていますがすごいことです。

 …教員の努力(犠牲)に上に成り立っている素晴らしさではありますが。

部活をやりたい教員

体育の先生だったり、野球部やサッカー部の顧問をしている先生は顧問をしたくて教員になった人も多いです。このことに関しては別に構わないと思う(僕もその口でしたし)のですが、「部活はやらなくてもいい活動なんだ」と理解しておくことは必要かと思います。

 

部活の教育効果を大きく考えすぎ?

「部活でしか指導できないことがある」みたいなことを言う人もいると思います。ですが具体的に考えてみると「先輩後輩との接し方」とか「継続性」とか、必ずしも部活でなきゃいけないものではない気がします。また、教育効果を教員が感じやすいというのもあるかもしれません。例えば国語の教員が生徒の論理的思考力を育てようと思っても、その効果ははっきりとはわかりません。それが部活なら目に見える形で上達が確認できますから教員としては嬉しいでしょう。

 

 

色々調べてみても、結局個人的には部活はあったほうがいいんじゃないかと思ってしまいます。厳密には教員が顧問をする部活です。

教員の労働時間が増える (しかも残業代はない)等問題があったとしても、生徒からすれば田舎で貧乏でも好きなことが出来る機会がもらえる場であり、教員からすれば恐らく生徒との最も密なコミュニケーションの場である部活が無くなってしまうのは、うまくいえませんが「痛手」な気がします。個人差はあると思いますが、授業だったりホームルームでの生徒と教員との関りは、部活のそれと比較すると機械的というか血の通わないというか…そんな風に感じてしまいます。まぁ、僕が先生とコミュニケーションとるのが下手だったというのは大いにあると思うのですが。ともかく、僕のような生徒は「他の先生には話したくないけど顧問の先生なら相談できる」みたいに考えることもあるでしょう。指導要領の「学校教育の一環として,教育課程との関連が図」ることにはこういうことも含まれる気がします。

世界的にみれば部活動がある国なんてほとんどありませんし、それが教育課程外だとしても、教員としても生徒としてもこの魅力を知ってしまった以上、なかなか無くそうとは思えません。

おわり

上手くまとまりませんでしたので後で追記するなどしようと思います。

部活が教員の負担にならないようなやり方を探して、良い面が残っていけばいいのですが…。

 

 参考

・学習指導要領

https://www.mext.go.jp/content/1413522_002.pdf

 

 

 

読書感想文不要論に触れて

一昨日から昨日くらいにかけて、「読書感想文不要論」みたいな話がTwitter上で話題になってたので少し調べてみました。今季のテーマは「流行りに乗る」です。よろしくどうぞ。

1.個人的な思い出

僕は(も)読書感想文は嫌いでした。厳密には読書感想文がというよりも夏休みの課題全般が嫌い、という感じでしたが。記憶が正しければ小1~高1まで、10年間に渡って嫌々感想文を書いていました。一度何かしらに入賞したこともありましたが嫌いな事には変わりません。何が嫌だったのか思い起こしてみると、「読書を強制される(課題図書)」「原稿用紙何枚も書きたくない」と下に書くTwitter上の人々と同じようなことを考えていたようです。

話がそれますが、高1の時の課題として感想文が提示された際に模範例として昨年度(一つ上の先輩)の感想文をいくつか紹介されました。そこに尊敬する先輩の感想文もあり、題材は「神様のカルテ」でした。その日の帰りに駅の書店で「神様のカルテ」を購入して以来、新刊が出るたびに読むようになりました。昨年、友人の住む長野を訪れた際、偶然作中に登場する病院を発見して随分興奮しました。余談です。

 

2.Twitter上の主な読書感想文不要論

「読書感想文」と検索してみると色々な人が色々なことを言っていますが、大まかにまとめると以下のような感じです。

 

  1. 道徳性>文章表現の巧みさで評価される
  2. 自由図書と言いつつも暗黙の了解で選べない本がある
  3. ろくに指導もされずに「はい、夏休み中にやってね。」
  4. 強制されて読む・書くのなんて嫌だ。

後で詳しく触れます。

3.読書感想文の歴史

そもそも、読書感想文と一口に言っても、各自治体が主催するものから「夏目漱石コンクール」のようなものまで様々な種類があります。そのなかで、いわゆる読書感想文というのは正式には「青少年読書感想文全国コンクール」という名前です

 

この青少年読書感想文全国コンクールがスタートしたのは1955年だそうです。

発足の根拠の一つとして、「不良出版物」と「優良図書リスト」が説明されていました。簡単にまとめると、当時、児童・生徒に良くない影響を与えかねない不良出版物が流通する一方で、児童・生徒に読ませたい・読ませるべき優良図書のリストが存在しなかったため、例えば先生が「そんな本ではなくこれを読みなさい」と言いたくてもその指標になるようなものが無かった、ということです。そこで児童・生徒の本に対する関心を高め、読書指導の助けとするために青少年読書感想文全国コンクールはスタートしました。また、当時の「審査のめやす」も紹介されていましたので抜粋します。

  5.応募規定にあっていること

  6.学年相応の作品であること

  7.物の見方、考え方がすなおであるかどうかをみよう

  8.その子の図書選択の程度をみよう

  9.文の構成、表現、文字の使い方、書き方もみていこう

このような審査基準のもと選ばれた当時の優秀作品集は7,9のような「個別の作品の質」だけでなく、6,8のような「選書のあり方」を示す資料としての機能も持っていたとのことです。つまり、この優秀作品集は文の書き振りだけでなく、どんな本を選んでいるかも評価されており、これを読むことで児童・生徒が「物の見方、考え方」「文の構成、表現、文字の使い方」の模範として学ぶことが出来るだけではなく、「本を読んでみたいけど何を読んだらいいかわからない」ときに、入賞した人がどんな本を読んでいるかを知ることが出来る「優良図書リスト」としての役割を持つことが期待された、ということかと思います。

4.現在の読書感想文

ここから読書感想文について調べることができます。

読書感想文全国コンクール公式サイト

現在の「審査のめやす」のようなものがあるかと探してみたのですが、見当たりませんでした。しかし、少し検索してみるとこんなものがありました。岡山県の審査基準です。他の自治体も大体似たような基準なのではないでしょうか。

http://sla.gr.jp/~okayama/conc/bun/bun_syocyu/4.pdf#search=%27%E8%AA%AD%E6%9B%B8%E6%84%9F%E6%83%B3%E6%96%87+%E8%A9%95%E4%BE%A1%E5%9F%BA%E6%BA%96%27

 

ざっと目を通すと、発足当初と変わらない部分も多いのですが、「生活と結びつき、正しい道徳性、生活の向上や人生観の確立、豊かな情操の表現などについて自分の生活に結びついた感想が表現されている」という文言があります。いつからこのような文言が加えられたかまではわからないのですが、少なくとも24歳の僕よりも下の世代の人たちは発足当初にはなかった(明示はされていなかった)この審査基準のもと感想文を書いていたことになります。

5.問題点とそれについて思うこと

ここまでを踏まえて、2.で挙げたもの+αについて少し書きたいと思います。推測の域を出ないことも多いかと思いますので参考程度に読んでいただけると幸いです。

・道徳性>文章表現の巧みさで評価される

➡こう主張する人が多いですが、多くは審査する側に回ったことのない人だと思 いますので「そんな気がする」の域をでない場合がほとんどだと思います。ただ、「比喩表現が出来てるから加点!」みたいに、文章表現の巧みさを客観的に評価し切ることは出来ないので大体同じくらいの文章の上手さの作品が並んでいたら道徳性が評価できる方を選ぶと思うので、「道徳的なこと書いといたほうが評価される」というのは否定できないでしょう。

・自由図書と言いつつも暗黙の了解で選べない本がある

➡厳密には「選べない」のではなく「選んでも評価されにくい」ということだと思います。ちょっと検索すればNAVERまとめとか「〇〇書店のおすすめ図書」のようなものがいくらでもヒットするとはいえ、3.で書いたような「優良図書リスト」としての機能を考えると仕方ないのかもしれません。

・ろくに指導もされずに「はい、夏休み中にやってね。」

➡個人的にはこれが一番問題じゃないかと思います。応募規定によると小1は800字、高校生は2000字ですが、小学生にしろ高校生にしろ、国語に限らず学校の授業でこんな分量の文章を書く機会なんてほとんどないといっていいと思います。しかも、少なくとも僕は書いたら書きっぱなしで、その後先生から「ここがよかった」とか「ここはこうしたほうがいい」とかもありませんでした。

・強制されて読む・書くのなんて嫌だ。

➡こういう書き方をすると怒られそうですが、読書が嫌いな人は感想文があろうがなかろうが嫌いなんじゃないかと。「読書感想文がきっかけで読書そのものが嫌いになりました」という人は他の色々と相まって嫌いになっているのではないでしょうか。個人的には余談で書いた「神様のカルテ」だったり、感想文ではありませんが高校の指定図書で読まされた「科学の考え方・学び方」のおかげで新書の存在を知ったりと、その後の読書生活に繋がる経験が多いので、学校から強制されてでも、良いとされる本を読む経験はあったほうがいいと思います。

 

・盗作

参考にした本にも記述がありましたが、盗作とか他の人に書かせるとかは難しい問題だなぁと思います。実際、知恵袋その他には夏休みになると代行依頼が溢れてます。ですが、そんなふうに書かれたものを提出されても先生は判断できないでしょう。先ほど紹介した読書感想文のHPには「困ったら家族に相談してみよう」みたいなことが書いてありますし、普段書かせていない分量を強いるわけですから書き振りが変わることも大いに考えられます。一人一人の盗作チェックをしてられるほど先生は暇でもないですし。

まとめ

読書感想文が優良図書リスト作成の役割を担っていた(いる)こと初めて知りました。

現在出ている不要論も言いたいことは分らんでもない、といった感じです。

最後に二つだけ書きます。

まず、「道徳性が評価される」ことについてです。先に読書感想文の審査の仕組みを簡単に説明すると校内➡市区町村➡都道府県➡全国コンクールの順で審査が進んでいきます。最初の校内審査を務めるのはクラス担任・国語の先生です。現場の忙しさに加えて、「このクラス(学年)の代表作品を自分が選んだ」という責任を負うことになります。周囲の目もあるなかで、「道徳性を評価しない」という勇気を持って審査できる先生は多くないでしょう。特に国語の専門でもない小学校の先生に「他に道徳的なことを書いてる作品はありますが、道徳性がなくてもそれを補うほどの文章表現の巧みさがこの作品にはあります」みたいなことを求めるのは酷ではないでしょうか。一方で、道徳性を評価するのならば、最初からそう伝えてしまえばいいのではないか。岡山県が公表しているような審査基準があるのだから「読書感想文では、読書体験を通して自分が学んだ道徳的なことについて、文章表現に工夫しながら書いてみましょう」と言っておけば不満もでないのではないでしょうか。

次に「ろくに指導もされない」ことについてです。これは読書感想文に限らず、国語科の「書くこと」指導の軽視にも関わってくるのかもしれません。「書くこと」は詳しくないのでここではあまり触れずにおこうと思いますが、感想文を書く前でも書いた後でも、何かしらの指導に繋げられればこんなに不要論も出ない気がします。なかなか難しいのだとは思いますが。

参考

読書教育の未来

登場した本

神様のカルテ (小学館文庫)

科学の考え方・学び方 (岩波ジュニア新書)

おわり

一生懸命書いたので疲れました。「ろくに指導もされないのやらされる」という意味では自由研究もそうだと思うのですが、自由研究不要論はあまり見かけませんよね。なんで読書感想文ばかりが青少年の敵課題みたいに扱われてしまうのでしょうか。

 

 

今更着てみたZOZOスーツ

今日は暑かったですね。明日は天気が良くないらしい。毎年季節の変わり目には体調を崩しがちなのですが、ずっと自室にいるからか今季は今のところ元気です。

ZOZOスーツ

二番煎じどころじゃないほど今更ですが…

昨日自分の肩幅を知りたくなったのですが、どこかへ出掛けて測ってもらうのは面倒だしメジャーは持ってないしそもそも一人暮らしだ、と考えてたところで2年くらい前に注文して放置していたZOZOスーツを思い出しました。

思い出した勢いそのままに、奥の方からそいつを引っ張り出して着てみる。我が家に届いたのは2代目?のドット柄ZOZOスーツなのですが、黒地に水玉のタイトなスーツに身を包んだ自分の見た目があまりに滑稽で少し元気になりました。とてもじゃないがSNSになんて載せられない。計測中もそれなりに滑稽なのですが、もう散々色んな人が報告してますし、スーツの配布も終わってるようなので割愛します。

 

僕の肩幅は43.8㎝でした。念のため2回測ったのですが2回目は43.3㎝だったので、ざっくり43.5㎝くらいと思っておこうと思います。

その他腕の長さとか太ももの太さとかも分かるのですが、「右腕の方が1㎝太いんだな」等思った以上に楽しめました。

ZOZOに限らず、サイズが合わなかったら嫌だなぁとネットで服を買うのを避けてきた(合わなければ返品すればいいのですがそれも面倒)のですが、せっかくマイボディの詳細な情報をあの有名な社長に献上したので、今後はZOZOタウンを有効活用していこうと思います。

余談ですが、学部を卒業したあたりから、服を店で買うための体力が落ちた気がします。「本買いに来たついでに服も探してみようかな」みたいなことが出来なくなってしまった。お洒落なおじさんにはなれなくても仕方ないとして、小綺麗なおじさんくらいにはなりたい…。ZOZOの検索窓に「肩幅 43.5㎝」と入れて出てくる画面をぐるぐるするくらいの体力と心意気をあと何年キープ出来るだろうか…。

おわり

冒頭に元気ですと書きましたが、2,3日前までしばらく原因不明の腹痛が続いてました。もう治りましたがなんだったのでしょう。

 

村上春樹な羅生門(下)

そこで、下人は、両足に力を入れて、いきなり、梯子から上へ飛び上った。そうして聖柄の太刀に手をかけながら、大股に老婆の前へ歩みよった。いうまでもなく、老婆は驚いている。

老婆は、一目下人を見ると、まるで弩にでも弾はじかれたように、飛び上った。

老婆が死骸につまずきながら、慌てふためいて逃げようとする行手を塞ふさいで、「一つ質問したいことがあるんだけど」と下人は言った。老婆は、それでも下人をつきのけて行こうとする。

「やれやれ。」

下人はまた、それを行かすまいと、押しもどした。二人は死骸の中で、しばらく、無言のまま、つかみ合った。まるで鶏の脚のような、骨と皮ばかりの腕である。すぐに下人は老婆の腕をつかんで、無理にそこへねじ倒した。

「君はここでなにをしていたんだろう、ところで?」

下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀の鞘を払って、白い鋼の色をその眼の前へつきつけた。けれども、老婆は黙っている。両手をわなわなふるわせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球がまぶたの外へ出そうになるほど、見開いて、唖のように執拗く黙っている。

「僕は検非違使の庁の役人かもしれないし、あるいはそうじゃないかもしれない。でもそんなことは正直どうだっていいんだ。世界には飢えた子供達が大勢いるし、この星の自然はこの瞬間も破壊され続けてる。それに僕のにきびはいつまでも大きいままだ。僕が検非違使の庁の役人かどうかなんて、いったい誰が気にする?」今度は、老婆を見下しながら、少し声を柔らげてこう云った。

すると、老婆は、見開いていた眼を、一層大きくして、じっとその下人の顔を見守った。まぶたの赤くなった、肉食鳥のような、鋭い眼で見たのである。確かにそうだと思う。僕だってこんなことを急に言われたら困ってしまうだろう。それから、皺で、ほとんど、鼻と一つになった唇を、何か物でも噛んでいるように動かした。細い喉で、尖った喉仏の動いているのが見える。その時、その喉から、鴉の啼くような声が、喘あえぎ喘ぎ、下人の耳へ伝わって来た。

「この髪を抜いているの、たくさんね。」と老婆は言った。

「この髪を抜いている。たくさん。」下人は、老婆の答えが思ったよりも平凡なのに失望した。いや、個性は誰にでもある。彼女にとっての髪を抜く行為は下人の知るそれとは少し違うのかもしれない。

「それはつまり、死人の髪で鬘を作るってことかな?」

「ええ。」老婆は頷いた。「大体そんなところ。」

もちろん納得はしていない、今だってそうだ。

「最後にもうひとつだけ、いいかな?」下人は遠慮がちにこう聞いた。「死人の髪で鬘を作るのは、悪いことじゃないかな?もしかして。」

老婆は、片手に、まだ死骸の頭から奪った長い抜け毛を持ったまま、さっきよりはっきりと、こんな事をいった。

「そうね、死人の髪の毛を抜くって、少し悪い事かも知れない。でも、ここにいる死人たちなんて、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだと思うわ。わたしが今、髪を抜いた女なんて、蛇を10センチとちょっとに切って干したのを、スモーク・サーモンだって、太刀帯の陣へ売りに行ってた。疫病にかかって死ななかったら、今でもきっと売りにいてたはず。笑っちゃうでしょう?スモーク・サーモンなんて!でも、わたしはこの女のした事が悪いとは思わない。餓死をしたくないから、仕方がなくしたんでしょう。だから、今また、わたしがしていることも仕方ないことだわ。ほら、ドストエフスキーが賭博について書いたものがあったでしょ?あれとおんなじよ。つまり、可能性がまわりに充ちているときに、それをやり過ごして通り過ぎるのはとっても難しいことなの。これ、わかる?」

 老婆は、大体こんな意味の事を云った。

下人は、太刀を鞘におさめて、その太刀の柄を左の手でおさえながら、冷然として、この話を聞いていた。右の手では、彼と同じくらいの年の男子がそうするように、赤く頬に膿を持った大きなにきびを気にしながら、聞いているのである。しかし、これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれて来た。それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上って、この老婆を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。下人は、饑死をするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの男の心もちから云えば、餓死などという事は、ましてやドストエフスキーが賭博について書いたことなんて、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。

「なるほどね。」

 老婆の話がおわると、下人は独り言のように念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手をにきびから離して、老婆の襟上をつかみながら、諭すようにこう云った。

「君はその髪を必要としている。切実にね。そして君はそれを手に入れる。仕方なく借りる、自業自得だから奪う、生きるために盗む…なんでもいい。どのみち捨てられた死人の髪だ。きっと誰も君を責めたりしないし、それがあればしばらく生きられるはずだ。そうだとすると、今から僕が君の着物を剥ぐとしたらどうだろう?だって僕も餓死しちゃいそうなんだ。」

下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。それはまるで何かへの復讐のようだった。浮気したあげく、一方的になんだかよくわからないことをまくしたてて部屋から出ていったあの子のように、下人はまたたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。

しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら(少なくとも僕にはそう聞こえた)、心なしかさっきより少し落ち込んだ様子の火の光をたよりに、梯子の口まで、這って行った。そうして、そこから、短い白髪をさかさまにして、門の下を覗きこんだ。外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。

 下人の行方は、誰も知らない。なんだかおとぎ話みたいに聞こえるだろうか。でもこれはおとぎ話じゃない。どんな意味合いにおいても。

おわり

クソデカ羅生門には勝てなかった。

 

村上春樹な羅生門(上)

「クソデカ羅生門」に負けてられない。

羅生門

 ある日の暮方の事だ。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。この下人が存在するという事は、下人でない人もまた、存在する。これはまあ世の中の成り立ちとしては当然のことなのかもしれないけど、そういうことについて真剣に考え始めると、僕の思考は暗闇の羅生門をさまようみたいに混乱してしまう。

 何故彼は下人でなくてはならなかったのか?

 何故彼は下人であり、僕はそうじゃないのか?

 広い門の下には、この男のほかに誰もいない。でも、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀は一匹とまっている。羅生門朱雀大路にあるのだから、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子(実のところ、僕は彼らがどんなものか未だによくわからない)が、もう二三人はありそうなものだけど。とにかく、この男のほかには誰もいない。

どうしてかって?この二三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか饑饉だとかいう災いがつづいて起ったらしい。洛中もさびれるはずだ。仏像や仏具を打砕いて、その丹がついたり、金銀のがついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪の料に売っていたという事だ。ほんとはどうだったのかは分からない。確かなのは、僕の手元にあるこの旧記ってやつにはそう書いてあるってことだ。洛中がそんなだから、羅生門の修理なんて、誰もしようと思わない。すると、狐狸だったり盗人がそこに住み始める。それがとうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。結果的に、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまった。君みたいな物好きを除けば、だけど。

 その代りまた鴉がどこからか、たくさん集って来た。昼間見ると、その鴉が何羽となく輪を描いて、高い鴟尾のまわりを啼きながら、飛びまわっている。特に門の上の空が夕焼けであかくなる時なんて、まるで胡麻か何かをまいたようにはっきり見えた。鴉の体内には恐らく、彼らだけに作用する人の顔ほどの磁石のようなものがあり、時々何とかの力を作用させてひっつかないとならないのだろう。もっとも今日は、刻限が遅いせいか、一羽も見えない。下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺の襖の尻を据えて、右の頬に出来た、大きなにきびを気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。

 僕はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようという当てはない。普段なら勿論、主人の家へ帰るはずだ。だって彼は下人だからね。ところがその主人からは、四五日前に暇を出された。「クビ」とか「リストラ」と言い換えてもいいかもしれない。ともかく、今この下人は、ちょっとした京都の衰微のせいで、永年使われていた主人から、暇を出されたわけだ。だから「下人が雨やみを待っていた」というよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」という方が、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人のサンチマンタリスムに影響した。申の刻下がりからふり出した雨は、いまだに上る気色がない。この雨がいつになったら上るのか、彼はもちろん知らない。ただ、この羅生門は(それが気が遠くなるほどの長い時間でも)雨に降られることに慣れているようだった。こういうわけで、下人にできることは朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞くことだけだった。

 どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる暇はない。選んでいれば、饑死するばかりだ。それが築土の下か道ばたの土の上かはわからないけれど、どこでそうなっても、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうことに変わりはない。選ばないとすれば――下人の考えは低徊する。「盗人になるよりほかに仕方がない?」下人は顔のにきびが気になるくらいの年齢で、きっともうすぐできものは消えるくらいだ。当分の間は住む場所も見つかる見込みはなく、かといって盗むを行うに至る確たる理由もなかった。下人の「すれば」はいつまでたっても、結局「すれば」であり、何時間もの間、新しい一歩を踏み出せずにいた。

「やれやれ。」下人は、大きな嚔をして、それから、大儀そうに立上った。夕冷えのする京都は、もう火桶が欲しいほどの寒さである。風は門の柱と柱との間を、夕闇と共に遠慮なく、吹きぬける。丹塗りの柱にとまっていた蟋蟀も、もうどこかへ行ってしまった。この蟋蟀がきりぎりすかこおろぎかについては意見の分かれるところだけど、今はそっとしておこう。

下人は首をちぢめながら、ぶんぶん頭を振った。まずは今日の宿の事を考えよう。お金とか食事とかについて考えるのはそれからでも遅くはない。そのとき、山吹の汗袗に重ねた、紺の襖からうっすら異臭を感じたが、それについて深く考えるのはやめておいた。たぶん、今はその時じゃない。すると、幸い門の上の楼へ上る、幅の広い、これも丹を塗った梯子が眼についた。上なら、人がいたにしても、どうせ死人ばかりである。下人はそこで、腰にさげた聖柄の太刀たちが鞘走らないように気をつけながら、藁草履をはいた足を、その梯子の一番下の段へふみかけた。

それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、さながら猫のように身をちぢめて(ただし、彼を知っている人間にこのことを言うと、そんなじゃないとみんなが口を揃えた。僕にだけそう見えていたのかもしれない)、息を殺しながら、上の容子を窺っていた。楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い鬚の中に、赤く膿を持ったにきびのある頬である。下人は、始めから、この上にいる者は、死人ばかりだと高を括っていた。それが、梯子を二三段上って見ると、上では誰か火をとぼして、しかもその火をそこここと動かしているじゃないか!

下人は、やもりのように足音をぬすんで、やっと急な梯子を、一番上の段まで這うようにして上りつめた。そこでほんの少しの間、やもりといもりの違いについて考えた後で、体を出来るだけ、平にしながら、頸を出来るだけ、前へ出して、恐る恐る、楼の内を覗いて見た。

見ると、楼の内には、噂に聞いた通り、幾つかの死骸が、無造作に棄ててあるが、火の光の及ぶ範囲が思ったより狭いので、その数が具体的に幾つかはわからない。ただ、おぼろげながら、知れるのは、その中に裸の死骸と、着物を着た死骸とがあるという事である。勿論、中には女も男もまじっているらしい。下人はふいに、「土偶と埴輪の違いはつくられた時代と目的なんだ、実は。」と興奮気味に語る社会科の先生を思い出した。人というより土偶とか埴輪のように見えるその死骸たちは、ぼんやりとした日の光を受けて、低くなっている部分の影を一層暗くしながら、永久に唖の如く黙っていた。

下人は、それらの死骸の腐爛ふらんした臭気に思わず、鼻を掩った。しかし、その手は、次の瞬間には、もう鼻を掩う事を忘れていた。ある強い感情が、ほとんどことごとくこの男の嗅覚を奪ってしまったからだ。

下人の眼は、その時、はじめてその死骸の中に蹲うずくまっている人間を見た。檜皮色の着物を着た、背の低い、痩せた、白髪頭の、猿のような(繰り返すが、僕にだけそう見えていたのかもしれない)老婆である。その老婆は、右の手に火をともした松の木片を持って、その死骸の一つの顔を覗きこむように眺めていた。髪の毛の長い所を見ると、多分女の死骸だろう。

下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸をするのさえ忘れていた。旧記の記者の語を借りれば、「頭身の毛も太る」ように感じたのである。すると老婆は、松の木片を、床板の間に挿して、それから、今まで眺めていた死骸の首に両手をかけると、丁度、猿の親が猿の子の虱をとるように、その長い髪の毛を一本ずつ抜きはじめた。どうも髪は手に従って抜けるらしい。

 その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、もしくは彼女の顔立ちが鮮明に照らし出されるにしたがって、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えて行った。そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。彼女は恐らく何かと金のかかる私立女子大学で仏文学を専攻し、卒業すると年に一度パリに旅行してきたはずだ。――いや、この老婆に対すると云っては、語弊があるかも知れない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。この時、誰かがこの下人に、さっき門の下でこの男が考えていた、饑死にをするか盗人になるかと云う問題を、改めて持出したら、恐らく下人は、何の未練もなく、饑死を選んだ事であろう。それほど、この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片のように、勢いよく燃え上り出していたのである。

「どうして髪を抜くのだろう、いったい?」 

下人は、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。勿論、下人は、さっきまで自分が、盗人になる気でいた事なんて、とっくに忘れていたのである。

 

 

隠れたカリキュラム

自分の頭の整理を兼ねて…

隠れたカリキュラム(潜在的カリキュラム)

 学校では、学習指導要領やそれに基づいて作成される教科書等を用いて、意図的・計画的な指導がされています。しかし、児童生徒はこのような、学校や教員による意図的・計画的で明らかな指導によってのみ、知識や価値観を得ていくわけではありません。友人との人間関係であったり、教室の雰囲気であったり、教員の発言等から、児童生徒や教員が学んでいる・教えているという意識がなくとも、無意識に児童生徒は様々なことを学習します。このことを隠れたカリキュラム(潜在的カリキュラム)呼ぶそうです。反対に意図的で明らかな教育計画は公式的カリキュラム(顕在的カリキュラム)とのことです。

自分は隠れたカリキュラムから何を学習してしまったか

この隠れたカリキュラムによってたくさんのことを勉強してきたように思います。むしろ、日常生活を送るにあたっては公式的カリキュラムから学んだことよりも多いかもしれません。それは何の問題もないので、ここでは自分の学校生活を振り返ってみて、「なんとなくそれが正しい(当たり前の)ように思ってたけどそうでもなかったな」ということを挙げてみます。人に聞いた話は()にします。

  1. 学級委員長や生徒会長等は暗黙の了解で男がやる
  2. 運動会の応援団は男子、チアは女子
  3. 帰宅部は何か×
  4. 浪人は悪、一般入試で受かるのが偉い
  5. (勉強なんかよりはやく働いた方が偉い)

多分、ゆっくり考えたらもっとありますがとりあえずこのくらいで。

1. 小学校ではあまり感じませんでしたが、中~高では○○長とつくものはほとんど男子   生徒がやっていたような気がします。この雰囲気があるせいで徐々に男が上で女は  下という価値観が刷り込まれてるんだ、という話はよく聞きますし間違ってる訳でもない気がします。

2. 当時は何の疑問もありませんでしたが、大学に入って女の人が学ランで応援団してるのを見て、女子が応援団をする、という発想すらなかったなと思った記憶があります。

3. 僕の中学校は部活強制加入という訳ではなかったのですが、何となく先生からも生徒のなかでも部活は入るのが基本で、入らなかったり辞めたりした人はアブノーマル、みたいな雰囲気があった気がします。部活以外にやりたいことがあれば帰宅部になるのは何もおかしくはないはずなんですが(少し話が逸れますが、サッカー部とかバスケ部がカーストの一番上で文化部は下の方、みたいなこともあったように思います)。

4. 悪、というと言い過ぎかもしれませんが、必要以上に浪人を避ける雰囲気がありました。まあ、しないに越したことはないでしょうけど。また、大学合格といえば一般入試だ、的な雰囲気もありました。好きなやりかたで受けたらいいはずなんですが。

5. 教育困難校とかだと進学なんかするより、とっとと就職して働くのが偉い・かっこいいみたいな価値観があると聞いたことがあります。逆に超進学校だと東大京大に受からなきゃ負け組、とか。

おわり

 

 

よくない意味での隠れたカリキュラムによる価値観が児童生徒に伝わらないようにしたほうがいいと思う一方で、1,2,3とか、学校だけが変わっても卒業後に生きていく社会ではそのよくない価値観を持ってないと生きづらい(世間知らずというか常識知らずというか)だろうなぁとも思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

500アクセス

 

いつもブログに足を運んでいただきありがとうございます。

500アクセスを超えて

ブログを立ち上げて2カ月弱が経ちますが、前回の記事を投稿した後に累計アクセス数が500を超えました。ありがとうございます。

最初の記事ではちょっとカッコつけたことを書きましたが、このブログ執筆に向かう心持ちの実際としては、在宅自粛で溜まった人と話したい欲の発散というのが大部分を占めていたように感じます。2,3日誰とも会話しないことが平気でありますから。

20くらい記事を書くと、「この時間に投稿するとみんな読んでくれるな」とか、「結構気合入れて書いたけどアクセス数少ないな」というのがあって面白いです。Youtuberの苦労が少しわかった気がします。

Youtuberで思い出したのですが、「毎週金曜日19時に投稿する」とか、それこそYoutuberまがいのことをやろうかとも考えたのですが、どうも性に合わなかったので辞めました。書きたいと思った時の勢いそのままに書くスタイルでしばらくはいこうと思います。勢いそのままが投稿されているため、たまに読み返すと自分でも「こいつは何を書いてるんだ?」と思うものもありますが、基本的に一度書いたものには手を加えずにいきたいと思っています。

コメントだったり直接だったり、「ブログ読んでるよ」「あれが面白かったよ」と言ってくれる方も少なからずいて、毎回とても嬉しく思っております。もしこんな記事が読みたいとかありましたら是非教えてください(期待に応えられないかもしれませんが…)。ちなみに、最もアクセス数が多かったのはセブンイレブンの冷凍餃子です。あれは美味いですからね。

 

今後ともよろしくお願いします、目指せ1000アクセス。